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言葉(1)

注)カヲルはドイツからの帰国子女でバイリンガルという前提



そういえばこんなことがあった。

残業中の土曜の午後、
ディスプレイでずっと作業して目が疲れて、
目薬をさそうとしたときのことだ。
ふと思い出した。



ある日、セックスのあと、ひどく体力を消耗したせいか、気がつくと左目が充血して軽く腫れていた。
シャワーを浴びた後その辺にいた彼に、なんといったかはもう思い出せないけど、疲れているせいで目がおかしい、というようなことを伝えた。彼はこれ使えと言って、小さなプラスチックの容器を差し出した。
この国のそれを初めて見たのでちょっと違和感があったけど、ああ、ありがとう、と手に取ってさそうとしたら、やってやろうか、と彼がにやりと笑う。
まるで子供扱いみたいだと思ったけど、反抗するのも面倒なくらい疲れていたから大人しく、ありがとう、ではお願いするよといって、背後に彼をたたせて上を向いた。

背中に体温を感じながらぼうっと天井を向いていると、しみるから我慢しろよ、日本の製品は添加物が多い、警告とともにその容器にもう残り少なくなっていた液体が数滴垂れた。

突き刺すような刺激が思いのほか心地よくて目を閉じた。
広がる瞼の闇、背後のぬくもり。

突如、ふと思いついて僕は訊いた。
この目に使う薬品のことを日本語では何と言うのだっけ。
彼が笑う。君は意外と簡単な言葉を知らないんだな、と楽しそうに。
「目薬、だよ。」
何だ、本当に簡単な単語だ。メグスリ。しかも間抜けな響き。
拍子抜けして、僕も笑った。

あれは冬の終わりだったと思う。





僕たちは昔、誰から教わったとか、どうやって知ったとかいうことを全て忘れながらいともたやすく膨大な言葉を覚えてきた。

大きくなってから別の言語を学ぶのは楽じゃあない。
ただ、それでも喜びがあるとすれば、その一つはまさに、こういう瞬間かもしれないと思うことがある。
それは一つ一つの言葉に、それを覚えた瞬間がこうやって凝縮されているのを感じる一瞬。
どうしようもなく退屈でありふれた単語すら、突如、不意打ちのように、映像や、音、感触、感情の記憶を伴って訪れる。
忘却の淵から、今はもう過去になった様々な人の表情や様々な場所が鮮やかに点滅し、僕を圧倒する。


例えば、メグスリ、なんて散文的な単語にすら、
こうして今、あなたの笑顔が蘇ってしまったように。



この小話は別ジャンルに分類されてる言葉(2)【注)HxH フェイカル】と連作です。
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