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雑念手帳

サイトの日記ですが、同人サイト訪問者様用に公開されたJUNK妄想雑文メモ置き場兼ねてます。「何となくこのキャラのイメージで出てきた妄想だけど限定はしない」系の小説未満な小話がごっちゃりです。

「選ばれなかった存在」としてのホムンクルス
いつも伺っている鋼サイト様の感想に「永遠の子どもとしてのホムンクルス」という表現が出てきて、おおなるほど…!となり、そして19巻を読み返していてふと思ったことがありました。
今まで特に考えなかったのが、あ、なんだこういうふうにヤヲイな裏読みできるじゃん!と気づいてしまったという程度のことなんですが。

以下、思いつくままに書いてみます。なお、必要に応じて19巻の台詞を適宜引用します。
第75話で、窓辺にたたずんでいたホーエンハイムに「フラスコの小人」ホムンクルスが言います。


ホム「私がこの世に生まれる事ができたのは君が血をくれたからだ。言い換えれば親だな。」

ホムンクルスは基本的に何考えてるのかわからないやつです。だから最初の言葉も100%善意か裏があるのか分かりません。ただとにかく「あなたは私の親ですね」と話しかける。するとホーエンハイムは、冗談っぽく苦笑します。

ホー「まだ家庭も持っていないのにもう子持ちか、俺は。」

コミカルな会話で、これまで私は読み流していたのですが、ふと思ったのです。このシーン、実はホムンクルスがホーエンハイムに「拒絶」された場面なのではないでしょうか。

というのも、ここでホムンクルスは「理論的に考えれば」ホーエンハイムの「子ども」ではあるかもしれないが、人間であるホーエンハイムにとってそれは苦笑するくらいにリアリティのないことだということが示されています。
しかも、ホーエンハイムはここで「家庭もないのに子持ち」と言い、ホムンクルスのいる共同生活が全く「家庭」とはほど遠いものであること、そして今後もホムンクルスはそこに属する存在とはならないであろうことを示唆しています。
つまりホーエンハイムは全く悪気なく善意に、無自覚ながらも一本の非常にくっきりとした境界線をホムンクルスと自分の間にひいているわけです。こうして「家族」「子ども」となることからホムンクルスはあらかじめ排除された。

そのあとのホムンクルスですが、

「家庭ねぇ…。人間は不便だな。そうやってコミュニティーを持って繁殖せねば種を繁栄できない。」

と、前の台詞に比較すると醒めた反応を返しています。しかも見下すようなニュアンスが付け加わっています。
それに対しホーエンハイムはこう答えます。

「繁殖とかいうな。おまえから見たらバカバカしいかもしれないけど。家族とか、仲間とか、そういうものに幸せってものがあったりするんだよ。俺たち人間は。」

「ふーん、そんなものかねぇ。」

生まれたときからえらそうで人間と一線を画していたのはホムンクルスの方だったということもできますが、ホーエンハイムに対して先に「親」だという表現を使ったのはホムンクルスの方でした。それに対してホーエンハイムの方は全く無邪気に、ホムンクルスが自分たちの「仲間」とは考えてないし「家族」になることはないというビジョンを返したわけです。


だから?と言われそうですが、私は考えてしまったのです。この会話って、家族というもの、もう一つの側面にかなり迫ったやりとりではないかと(以下、ここを読んでる方の九割ほどにはぎょっとされそうな、荒川先生もおそらくはあまり意図されなかったことを話すことになるかもしれないのですが…)。
それは「家族」というものが人間にとって自分以外の者に対する原初的な愛の源泉であると同時に、ある種の差別の源泉でもあったりするということです。だから悪いとかいいとか言うのではなく、人間という存在の有限性故に両方が分かちがたく結びつきざるを得ないように感じるといいたいのです。以下、少し自分の考えを述べます。

人間は社会生活を営む中で、親密度に応じて他者をゾーン分けします。例えば性愛関係を持つ人を恋人と呼んだり、経済的・法的な取り決めをかわして夫婦となったり、子どもがいたり、そのたぐいの関わりを持たない人を友人と呼んだり。
その中で家族というのは、色々な形態があるでしょうが、基本的にはお互いに親密な領域を分かち合うことを前提とするコミュニティです。だから人は「家族」となるとき人はどうしてもそのメンバーを選んでしまいます。例えばヘテロの人だったら配偶者にまず同性は選びません。そして子どもを持てばその子を他の家の子よりもかわいくて守りたいと思ってしまうでしょう。更に露骨に「選ぶ」話だと配偶者に特定のタイプの職業、民族を選んだり、養子でも実子でも子どものあり方に条件をつけたりという発想が働くこともあり得ます。更にわかりやすい極端な例を挙げれば、人間にとって人間以外の動物――例えば豚だとか――を真剣な家族の一員にするのは難しいでしょう(不可能ではないが)。
繰り返しますが、だから悪いと単純に言いたいのではありません。このような例を挙げることで、人間が皆、不可避にもつ「愛の限界」について考えたいのです。
例えば、親密な領域を誰にでも晒して平気な人格というのはよほどの場合を除きありえませんし、また自分の時間や体力を割いてパートナーや子どもにつくすようなやり方で全ての人や生き物に接するなどということも普通の人間には不可能です。
それこそいわゆる宗教的なもの、「神の愛」のような領域にいかねばならないでしょう。

ただ、いずれにせよ家族というのは人間の愛の可能性と限界、両方の狭間にあるコミュニティだなと私自身は感じるわけです。
家族を作るにはどうしても、愛の可能性が及ぶ範囲とそれ以外の間でかなりはっきりとした境界線を引くという行為を迫られる。すなわち常にその中に含まれるものと含まれないものがいるのです。
そして先の会話の場合、ホムンクルスは自分にとって「親」であるはずのホーエンハイムが望む「家族」や「仲間」から除外されている己の立場を再発見したといえるのではないか。その認識に対し、フラスコの中で一人、人間を見くだす感情を持つことで折り合いをつけようとしたというところもあるのではないか。実際にはホムンクルスが何を思ったかは定かではないわけですが(もともと何考えてるのか分からない感じだし)、私にはふとそんな風に思えてしまったのでした。

そう考えてしまうと、クセルクセスを滅亡に導くシーンの63pでのホムンクルスが、

「血を分けた家族、ホーエンハイムよ。今、君と私が全ての中心だ。」

と言いながらホーエンハイムを巨大な賢者の石に変えてしまうのも意味深です。だって要はこれ、無理矢理ホーエンハイムを「家族」や「仲間」を求めることが出来る人間としてのあり方から引きはがして、自分の側に引き寄せてるわけでしょ。そしてまりものような姿で「家族」とは認知されようがなかった当初の状態よりも、明らかに似ている存在同士になってしまった。
何だかもう、一方通行な逆恨み系の愛の発露なんじゃないかとすら思えてきてしまいます。

そう言うわけで結論としては、
・この話って、ヤンデレ外道ホムンクルス→ホーエンハイムの壮大な一方通行恋愛の物語のようにやおい読みできる。
・ホムンクルス(とその七人の子ども達)とは人間の愛の限界ゆえに選ばれなかった存在の象徴なのではないか(「選ばれなかった子ども」であり「選ばれなかった家族」であり「選ばれなかった仲間」である)

という二点です。
特に後者については23巻で「フラスコの中の小人」ちゃんから分岐した一部であるはずのエンヴィーが「仲間や友達がいる人間に嫉妬」していたことをエドに指摘されているんで、何か本当にそんな気がしてきちゃったりw


でもってそう考えちゃうと、最近発売した巻で「お前も家族が欲しいんだろ。だから七人もホムンクルスを作ったんだ云々」(台詞うろ覚え)とホーエンがお父様に言ったシーンとか見て「ちょwふったのはお前だろwwこの男、鈍いっつーかデリカシーなくね?」とか思ったr(ry
いやこれ妄想しすぎかwww


というわけで長くなりましたがこの辺で。
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コメント

1. 無題

同感です!最初に「フラスコの中の小人」をきっぱり拒絶したのはホーエンハイムです。そして最新刊の中でもそれにまだ気づいていない・・・このあとフォローはあるのかな?と思ってます。
(何巻か忘れましたが)エド、アルと「お父様」が初めて出会うシーンでも「お父様」はグラトニーから出てきた人間に驚いた、あるいは人柱に会って驚いた、というよりもう少し好意的な興味を示しているように私は感じました。しげしげ見たり、骨折を治したり・・・。「お父様」にとってはエドとアルは「兄弟」ですよね。

そうそう、そしてご指摘のとおりホーエンハイムの息子エドもエンヴィーに「人間がうらやましかったんだろ」の台詞。さすが父子・・・でもホムンクルスはホーエンハイムに理解?されて嬉しいようには見えないし・・・いや、これは理解ではなくただの指摘でしかないからでしょうか?このあたりがホーエンハイムとエドとの違いなのかもしれません?

2. 無題

「何かに気づいてない」という感じは私も持ちましたね…。
個人的にホーエンハイムは気にしない人、大らかな人という印象で、でもそれがゆえにある種の人にとっては残酷というか、善意で人を刺せる感じの人かもしれない…と思うことがあります。ただまだ憶測なのでわからんですが。

お父様にとってエドとアルは「兄弟」…。そういえば確かに。牛先生もその辺四コマにしてましたねw
私は14巻のそのシーン読んだ頃はまだお父様のことホーエンハイムの「分身」見たいにとらえてたんですが、あとになって「あ、子どもかぁ…」と思った記憶があります。

ホーエンとエドがちょっと性格違う可能性があるとしたら、エドがいちどは「捨てられる」事を知っている子どもだってあたりかなあ。この辺どう描かれるかまだわかりませんが…。アルは覚えてないからわだかまりないけど、エドはちょっとひっかかってましたよね。今の感じだと共同戦線はってるし、エドの方もツンケンしながらもある程度親父を理解してまあいいやってなってる雰囲気だけど。

色々な解釈はありそうですが、個人的にはエドの「人間が羨ましかったんだろ」は、ちょっと相手に寄り添おうとした、もしくは単純に哀れんだのかな、と思ってます。ただし「哀れみ」の場合、それはもう相手を互角の敵としてみないってことでもありますから、エンヴィーにとってはやっぱ「屈辱」だろうなあと。
エドエンフィルタがあるからちょっとうまく分析できてるか自信ないけどw

対して、ホーエンの「人間が羨ましいんだろ」発言はもっと無邪気というか、互角のライバルをおちょくるようなノリに聞こえました。だからお父様も例え図星だったとしても「はぁ?」という感じで返してる。
もしくは(やおい妄想込みで言えば)「何この男?元はといえばあんたのせいだっつーのに今更何?こっちはあんたに捨てられてからこんなに強くなっちゃったんだからね!ほーらほらほら、みなさいよォ!!!」(何故オネエ言葉)的な…

…ごめんなさい冗談です。


というわけで、今後エドがお父さんとどういう違いを示すのかは私も気になりますね~。
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