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雑念手帳

サイトの日記ですが、同人サイト訪問者様用に公開されたJUNK妄想雑文メモ置き場兼ねてます。「何となくこのキャラのイメージで出てきた妄想だけど限定はしない」系の小説未満な小話がごっちゃりです。

鋼一期最高で再考
ごぶさたしてました。
鋼一期が再放送しているためか、エンヴィーを好きな方と出会う頻度が僅かに上昇していてむちゃくちゃ嬉しい春です。
久しぶりにtwitterでエンビたんの話題もりあがったりして、 ヤダ何コレ幸せ、的な…(´ω`*)

で、一期鋼(最終回あたり)見直したりしてたんですが、エンビたんちょっと原作と違うけど、脚本がやっぱいいですね。

原作と一番違うのは良くも悪くも「罪」と「責任」についての描き方かなあ。
前にtwitterでも書いた気がするけど、一期のメッセージは「どんな状態でも生きていればいいというわけではない」「消せない罪がある」で、だからどうすればいいかって話なんですよね。対して原作は「生きていればそれでいい」「罪を犯してもやり直せる」がメッセージだった気がする。

たとえば一期のスライサーは「オレの弟が人間であるように、お前達も人間だ」と言うエドに、「こんな姿で生きていかねばならない俺たちを人間扱いするのがどれだけ残酷か分かるか」「外の世界に出ても俺たちは死刑になるだけ」と切り返す。そしてエドは自分がホムンクルスとして生き返らせてしまった母親(のコピー)を再度葬る。そして最後には、生まれ故郷で生きることすら断念する。幼なじみと過ごしたやさしい世界にエドは戻ることができず、錬金術も使えなくなるのだ。それは新しい人生の始まりではあるが、許されていた子ども時代が完全に終わったことを象徴するかのようでもある。ただし、唯一の慰めは弟のアルが(まるで伴侶のように)ついてくるということであるが。

対して原作ではエドがスライサーをも人間扱いした、エドにとっては人間の範囲が広い、というところが重要視される。また「罪が許された」類のエピソードが頻出する。たとえばエドが「実は罪を犯していなかった」という展開にはじまり、最終回あたりではプライドに対して赤子になり生まれ直しを許してしまうことや、スカーが生き残る、など。特にプライドについては、母親に憧れていたという点を除けば、彼は一番の黒幕であり残忍極まりない存在であったはずだが、その問題な素質がなくなったのかは問われないまま、作品世界は赤子になったプライドの存在を許容する。まるで善人も悪人も等しく愛し飲み込もうとする母のように。

あまりこういう一般化はよくないかもしれないが、一期はやはり男性的(ただし主に父ではなく子の立場としての)な価値観で、原作は女性的な(それも母性的な)価値観が前面に出ているように感じる。
罪悪感や責任にこだわり、人を常に裁いたり、人に裁かれたりということを気にしている精神の産物が一期鋼だ。その世界観の中では人は容易に許されない。または許しに甘んじてはいけない、とされる。精神的なレベルでは意外とマッチョな価値観なのだ。
対して原作の方は、とりあえずどんな子でも「罪を悔いてまっとうな人間になるならば生きていてよい」のだ。ただし、その子が家庭的なコミュニティに悪意を持って破壊しようとするような子でない限り、という条件付きではあるが。それゆえ、良き父を殺したエンヴィーや、家族の絆を否定するホムンクルス=お父様は許されなかった。彼らはどうあがいても「いい子」にも「良き親」にもなりようがないからである。

まあ、こういう解釈もあるよ、ということで。
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