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雑念手帳

サイトの日記ですが、同人サイト訪問者様用に公開されたJUNK妄想雑文メモ置き場兼ねてます。「何となくこのキャラのイメージで出てきた妄想だけど限定はしない」系の小説未満な小話がごっちゃりです。

二次創作の役割について考えた
何だか本当に時間経つのはやい…
すっかり時間が経ってしまいましたが、先の30日に二次創作つながりのある方とお会いして、すごく濃くて深いトークを堪能させていただきました。

いわゆる「萌え~!」トークもヲタの醍醐味ですが、それと同じくらい、「どういうコンセプトで物語を作るか」という話を聞いたり、したりするのが私はとても好きです。
その方(小説書きの方です)は、作品世界の舞台背景(例えば地理情報や時系列、原作世界もしくは他の二次作品との関わり、etc.)含め、一つ一つの作品にしっかりとした設定を与えて緻密に物語を織り上げるタイプのお方で、一個一個のSSの裏話を聞くだけでもう面白い。そして背景にある哲学というか思想が深いのです。
あまり個人の特定や、そもそもネタバレにつながることをここで細かくお話するわけにはいかないので、詳しくは語れないですが…。

そして私はそのときに、二次創作ならではの、二次創作にしか出来ないことの一つをハッキリ意識させてもらったような気がしたのでした。

(私が理解した限りでは、ですが)そのお方は、境界線上にあるもの、日常の中、うっかりすると切り捨てられたり、もしくは謝った分類の中に埋もれてしまうようなものに目を向けておられました。
例えば、床の上に、数多くの赤と青のビー玉と混じって、薄紫色のビー玉が転がってたとします。でもって、それを片付けなければならないが「お片付け箱」には赤用と青用しかないとする。となると状況によっては、薄紫のビー玉は青の方につっこまれたりだとか、もしくは別により分けられ、捨てられるもしくは忘れられるというようなことが起こります。
でもそのお方は、床の上に落ちた薄紫の方に改めて顔を近づけてみて、それをそのまま描写しようとする、というようなことを試みておられる。もしくは、既に整理されて手元に届いた赤と青のビー玉を眺めながら、捨てられたもの、自分の所には届かなかったものを想像し、推測して、可能性をさぐってみるというようなことも。

一つの作品、特に、一応は少年少女向けのものとして世の中に出たものというのは、どんなに作品のクオリティの高いものであっても、不可避に切り落とさざるを得ない部分、語られない部分を含みます。それは別に作品に不備があるというわけではなく、むしろ限られた時間(TVでの放映時間とか)やスペースの中で作品として完成度の高いものとなるために必要な「省略」であったりします。例えば、脇役一人一人の人生をいちいち語っていたら作品は終わらない。また、「お子様向け」であれば特に、不必要な暴力や性表現はむしろ作品の質に影響を及ぼすでしょう。

だから、先のビー玉の例えで言えば、公となり、商業的に成功した作品というのは、そのために作り込まれ整備されているという意味で、不可避に「お片付け箱に入ったビー玉」のような側面を含むだろうと私は思います。つまり、お片付け箱に入りきらない部分は省かれたり、紫色のビー玉のように、受け手が混乱するような要素も減らされている。その上で、いわば、赤としての素晴らしさや、青としての見事さでもって人々を魅せるわけです。

そして、そのお方の話を聞いていて思ったのは、二次創作の面白さ、重要な存在意義の一つが、その箱からこぼれた紫、もしくは間違って青や赤といっしょくたにされている紫を追いかけることであるだろう、ということでした。

どういうことかというと、例えば、原作の設定からすれば当然考えられるけど、きっと原作者の側からはフルに語られることがないであろうエピソード、つまり箱には入れてもらえなかった要素を想像してみる、とか。さっき言った脇役の人生について考えるような場合がこれです。
では「青や赤といっしょになっている紫」はどういう場合かというと、私は端的にいくつかのヤヲイの例を思い浮かべます。例えば、異性愛オンリーが建て前になっているはずの少年漫画でみられる奇妙に熱いキャラ同士の友情描写。それは、制作者サイドが「健全なもの」として集めた何かの中に、見る人が見れば違うものが紛れているという状況でもある。もしくはそれは、原作者により仕掛けられた(つまりわざと混入された)紫のビー玉みたいなものかもしれない(エヴァの第弐拾四話など)。いずれにせよそういうときに「紫がある!」とそこに意識を集中させることに、二次創作的な想像力の役割があると私は考えたのでした。

なお、この場合の「紫のビー玉」探しは、別に作者の隠れた意図を読むということではありません。それは原理的に不可能です。(更に言えば、そもそも人間の精神には無意識の領域というのがあるから、作者自身が知らない作者の欲望、つまり原作者本人にすら分からない何かが作品世界には宿っている。)

むしろ醍醐味は、そこにその人なりの紫色を、無秩序に、自由に浮かび上がらせることにあるのだと思うのです。すなわち、原作という枠組みがあり、その助けを借りながら、しかし、誰もが語らなかった何かを浮かび上がらせる。それも、既製のメディアや一次作品の枠ではなかなか居場所を与えられない境界線上の何かをかいま見せること、それが二次創作ならではの役割なのではないか…




……というようなことを、その日のトークの後からずっと考え続けています。
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