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雑念手帳

サイトの日記ですが、同人サイト訪問者様用に公開されたJUNK妄想雑文メモ置き場兼ねてます。「何となくこのキャラのイメージで出てきた妄想だけど限定はしない」系の小説未満な小話がごっちゃりです。

解釈の複数性という当たり前のことが忘れられるとき
いやぁ、大層なタイトルで、実は夜中のうわごとみたいな話なんですがw

私は四つほど(って多いなw)二次創作サイトを持っていて、どれもヤオイ関連です。
でもって、そのせいかどうかは知りませんが、ごくごく希に批判とも中傷とも取れる大変短いメッセージが来ることがあります。
どのくらい希かというと、四つのどれもがほどよく静かな過疎サイトなので、せいぜい学期末テストくらいの頻度。
その中でも面白いのが「作品を分かってない」という言葉をときどき見かけることです。

大抵はWeb拍手を介して(つまり「拍手」してくる)上に、四つあるどのジャンルのことかも分からないことが多いので、ついつい「荒し対策」マニュアル通りスルーして忘れてしまうのですが、さっき、よく拝読しているこちらのブログサイト様の記事で敢えて振り返ってみたくなりました。

いや、もう記事に書かれていることだけで、私に付け足すことはさほどないんですが。

それでも思ったのは、こんなことです。
こういうメッセージを送る方々というのは、人生の中で、「唯一の正しい何か」があるという考えを周りからずっと押しつけられてきた人なのかもしれない、と。

例えば、高校くらいまでの国語の授業ではテストで「正しい読み方」を答えなければならない。でもっておうちに帰ればお父さんやお母さんが、早く良い会社には行ってきちんと結婚してね、なんて「普通の正しい生き方」を期待してたりとか。
なるほど、こんな育ち方をして、しかもまだ二十代にも手が届くかしらという年代だったとしたら、夜中に一人盛り上がってベチベチとWeb拍手を叩き件のメッセージを送るような事態が生じたとしても不思議はない。


しかし、ある程度文学批評に親しんだり、そうでなくともある作品と出会ってそれを深く愛したりすれば「解釈の複数性」というものに否応なく触れることになります。つまり、誰かが完全に「作品をわかる」ことなどありえないし、一つの作品というのは結局無限の解釈に開かれているということ。どんな読み方も出来てしまう。例え、作者であっても、自分の創造した作品の神とはなり得ないし、敢えて誤読するということさえ、読者には許されている。
すなわち100%の理解は誰にも原理的に不可能。

そもそも、日常で用いる自然言語自体がどう表現しても曖昧さや両義性を免れない部分があるので(それゆえに昔の人々は曖昧さのない人工言語や普遍語を夢見たりもした…不可能だったけど)、その言語から出来ている作品が完全にブレがなく「理解できる」ものであるわけがない。更に、事実による論証や立証を必要としないフィクションならなおさらのこと。


…まあ、でもここまで書いてきたようなことを自分が理解したのも、結局18歳より後のことで、それまではそんな機会も時間も与えられなかった。

とりあえず、いかがわしい「理解」を求めるのではなく、もっと柔軟な「解釈」と戯れる訓練を人生の早い段階から経験できるように、教育なり社会なりをどうにかしたほうがいいような気がするなあ。
(実際、大学受験があるから、高校までの教育では「たった一つの正解があるんだよ~」っていうふりをせざる得ないって事あると思う。でもって大学に入った途端、手のひらを返したように「解釈の複数性が…」とか授業でいわれて、わけがわからなくなるわけだ。)

国語の時間に同人小説作るとかって、どうだろ。
結構勉強になると思うけどねw(冗談)
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コメント

1. 無題

ちょっと同じような話題を最近知り合ったかたとしていて、いるよなぁ、あるよなぁ、と感じてしまいました。

それとはまた別で「唯一の正しい何か」のくだりで思い出したことがあったのですが、
昔、進学するかしないかで、当時文通していた同人関係のオネーサンに凄く説得されたことがあったんですw
それも"貴方に強要します"と言われまして(笑)まさに、唯一の正しい道として言われて驚いたんですけれど。

当時その友人は大学生で、確か6つくらい上だったかと思うのですが、あまりの一方的な考えの押し付けに、付き合っていけないなぁと、そこで友人関係も文通も終わってしまいましたが;(もちろん押し付けすぎるなぁと思い、俺の思いのたけは最後に手紙10枚くらいに綴って送りましたwww)

その彼女は、やはりサキオさんの言うような、家族や学校やらから正しい人生を無理に押されて生きてきて、俺の進学問題のちょっと前に浪人してまで大学に入ったようなのですが
イヤだイヤだと思って辛かったけど頑張って合格して、その結果の人生によかったと後々思えたから、という理由で俺にも進学を強要するといった感じでした。

誰でもそういうわけではないのになぁと、子供心に思っていましたけれど、(進学を後悔するかもとかではなく、それはそれで結果としてよかったと思うことは割とたくさんありますよね)

俺も当時やはり思春期真っ只中でしたので、自分の曲げたくないものだとか考えがあったりして、(やりたいこと等があったので)
でもその友人らや家族や周囲にあれこれと正しい人生を言われるうちに「自分は絶対他人に押し付けがましいことを言う人間にだけはならないぞ」と思うようになりました(笑)

何よりそのときに、単純に「強要します」の一言に何か不愉快をものすごく感じただけなんですけどね(笑)もう少しススメるにしても言い方というものってありますよね。ましてや成人した大人が子供に人生の正しい道を教えようというならば・・・;


それまでは確かに何処かで、他人に、自分に影響をあたえたものや、人の発言を受け売りなのに押し付けたりしていたかもなと思うこともあります;
だからそのオネーサンとの出会いは俺の人生で不愉快だったけど大きく良い考えかたを得られたなぁと・・・(笑)

一本筋の通った考えや思いを持ち続けたいと思いつつも、ひとつの角度からしかものを考えられない人間ではいたくないなぁと、その間でフラフラしてたりしますがw;


特定のカップリング以外は否定的な友人も身近にいるのですが(笑;)
俺としては基本的に「あまり好きになれない・興味がない」というものはあるものの、「嫌い・否定」になるものなんかはあまりない性格なので、会話の中で困ることがあって、踏み込んだ関係にはなれないなぁと感じたりします。

何事にも生理的に受け付けないものって誰でもどこかにあるものなのだろうけど、特定のもの以外は全て否定ってもったいないなぁと思うことが多いですー;
俺が相手にそれを言うのも余計なお世話なのかなと思ってたいていスルーしますが(笑)

まー頑固な性格なのかなぁとか色々考えたりもしますけれど・・・

そんな俺のバイブルは(たくさんありますが)羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」です(笑)

すみません思い出話で長くなってしまいました;
レスは気にしないでください(笑)俺も話しだすと長いので・・・;

2. 無題

実に身につままされる話題ですなぁ(笑)。
あ~あれですね、自分の思考範囲外の人と出会った時、どう思うかでその人の許容範囲が量れるってヤツですね。
てか、どれだけ人や自分と向き合って乗り越えてきたかも分かりますね。
個人的な遭遇で言えば、ネット人格に対する苦言はあったけど、カプ嗜好や作品でそういうコメを頂いた事ありませんね。月日によってファンが淘汰され、更に年年齢層も高いからでしょうね。なんせ来年で20周年、こういうのって作品自身が経てきた年数も結構に関係ありますよね。

さて、件の「唯一の正しい何か」ですが、私自身が若い頃、こういう類に分類される人だったので、本当に何とも言えない感傷が募ってくるのですが、ただ幸いな事?に、自分の見方が「圧倒的にマイノリティー=間違った見方(便宜上こういう言い方をしてます)」なので、一歩立ち止まれた感があるんですよね。「本当に人それぞれなんだろうな」と。
だからこそ、周囲ももちろん、自分自身も成熟するまで、殊更大事に取っておいたんですよ。

人は自我や経験でもって、物事を判断するのであって、その自我や経験自体が一律・画一的でないのですから、「客観的に作品を理解する」事は絶対できないと私は思います。
特に文化に関しては、客観的ではなく、主観的に思考するからこそ深まるのではないでしょうかね。ただその主観、言い換えればエゴイストな自分自身の主張する時に、客観的に分析できるかが大切なのではと思います。

もちろん作者の「受け取って欲しい」という希望はあるとは思いますが、作品を解釈する人々は、必ずしも1つの正解に向かうワケではありませんし、作品から受ける感触も千差万別だと思います。その幅がその国が持つ文化の幅のなんじゃないかなと思うんですけどね。

つまり、受け手には全ての事が無限に許されており、受け取った個人が自分で正解を導き出す事が、その作品に対する正解とも言え、そして手段の1つに2次というのが存在すると(笑)。
だから、全ての2次同人の立場に、正否や優劣なんてモノはないと思いますね。
まぁ・・・健全・不健全であれ、2次同人そのものが「他人のふんどし取り」、原作からしてみれば蹂躙行為ですよね・・・その事実と申し訳ない気持ちは常に持ってなきゃダメだよなとは思ってますが。
あれ、なんかちょっと話題ズレてますね(いつもの事)。

常々思うんですけど、昔は2次の思考発表の場って、同人誌即売会とかオフ会とかあとは雑誌でチェックして通販って感じで、人目に触れる行為をしなくてはならなかったので、面と向かってカミングアウトする勇気と覚悟が必要だったんですよね。
今はねぇ、隠れる事ができるじゃないですか。ネット上だけとか、それこそ実際に面と向かう必要がない。そういう手軽さが難儀な事を引き起こしたりしていますよね・・・

同人だけじゃなくて、ホント社会的に考えないといけない事ですね、これ。

3. 無題

>NAOMIさま

なるほど…。
それだけ周囲に色々言われて、十代の半ばでよく決断しましたね…。
譲れないものを人生の早い時期から持っているというのはすごいなと思いました。

今回のお話を読んでいてふと思ったんですけど、自分が過去にした選択を否定されたくないって気持ちと、同時にちょっとは人のことを心配する気分なんかが入り交じったとき、「これが正しいんだよ!」という言い方をして自分のやり方を押しつけてしまう人って、結構いるような気がする。

つまり、「学歴がないと将来、あなたが大変な思いをするかもしれないから心配だ」と言いたいのと、「私or僕の世界観を壊さないで(もしくは私の努力を認めて)」と主張したい気分とが、混じってるわけだけど自分ではそれをはっきり意識できてない。それで、「正しい」んだからそれをしろ!と一方的な言い方をしてしまう。
私の場合は「(男と)結婚くらいするべきだ」「子供いないと寂しいよ」という言い方をする人に時々それを感じますね。
こちらとしてはどうして、ただ「心配している」とだけ言ってくれないのかなあ、と思うわけなんだけど。

カップリングの問題、または腐女子叩きについては、まあ「心配」の側面よりも「私の世界観を壊すな」系の気持ちが溢れちゃってるんでしょうけど…。でもそんなこと言われたって、ねえ…。
私も、無関心とか興味ないとか、笑っちゃってダメwなカプならありますが、カプの好みの違いでそこまで嫌悪感感じた事ってないので全否定みたいな感覚はよくわかんないです。

「ニューヨーク・ニューヨーク」は私も好きです(´∀`)
あの頃って、まだあんまりまともに現実の中でのゲイの話を扱おうとした漫画が少なくて、新鮮だったなぁ。

こちらも長くなりました。また色々語って下さいw

4. 無題

>瀬川さま

ども~v
「思考範囲外」っていい表現ですね。なるほど…
カプ嗜好については、多分、いわゆるヤヲイの「攻受逆カプ問題」でイライラする人がいるのかなと推測してます。私、あまりメジャーじゃない攻受パターンを扱ってるんで。グランはその辺、もう落ちついているというか、あまりもめ事は発生しなさそうですよね…。ファンの落ち着きもあるでしょうしw

「正しいと信じて何かを押しつけようとする」は、それこそ瀬川さんがいつか仰ってたように、「人は人、自分は自分」という発想が出来ない成長途上の十代半ばくらいまでは、誰もが通る道なのかなと思ってます。問題はそれが大人になってもやまないというか、強化される場合があることかなとも思ったり。

>言い換えればエゴイストな自分自身の主張する時に、客観的に分析できるか

そうですね。解釈は無限だし、勝手な自分設定を入れて作品の萌えを語るのも自由ですが、どの部分が原作に書いてあったことで、そうでない部分はどこかとか、その辺の事実関係は冷静に把握していることが望ましいとはわたしも思ってます。データはちゃんと処理するに越したことはないわけで、それは理解してる。でもデータのない部分を自由に想像したり、わかってるけどわざとデータを無視して色々作ったりする自由はあるでしょ、みたいな。

>その事実と申し訳ない気持ちは常に持ってなきゃダメだよなとは思ってますが。

私も作者の方へのリスペクトはすっごい大事と思ってます。ただ私の場合、「申し訳ない」感覚は、正直言って薄いかも知れない。この辺はひょっとすると、多くの方と異なるのかも知れないですが。作者の方に不利益にならない何らかの形で、二次同人にもそれなりの法的な権利を認めて欲しいと思ってたりします。
究極的にはフランスあたりの著作権法に存在するという「パロディ(同人も含む)の著作権保護」実現を夢見てたり。
(…ただ、日本みたいに同人市場がでかい国で二次同人の著作権保護をやっちゃうと、経済的に混乱があるかなという気もしてるんで、単純にそれを導入すべきとはいえないとも思ってます。フランスのは確か、新聞の四コマ政治風刺なんかを守るためだった。そういうので実在の人物や作品がパロディ化されたりしても著作権侵害にならないように、というわけで。当然ながら、日本みたいなでっかい同人市場を前提にはしてないんですよね。)

ネットだけだと、気軽にものが言えちゃうって言うのはそうですよね~。
オフで会うと面と向かって言いづらいのが普通ですし。
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