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雑念手帳

サイトの日記ですが、同人サイト訪問者様用に公開されたJUNK妄想雑文メモ置き場兼ねてます。「何となくこのキャラのイメージで出てきた妄想だけど限定はしない」系の小説未満な小話がごっちゃりです。

HxH映画「緋色の幻影」感想
ハンタ映画「緋色の幻影」みてきました。

前評判がさんざんなことになってて期待してなかったんですが、いや、よかったよ!
もちろん難を言えば、尺が足りないから色々詰め込んでオールスター競演的になる展開とか、台詞が説明過ぎるところとか気になるところはありました。また、念能力の設定や技の組み合わせなど、ゲーム設定的整合性が気になる人が不満というのはあるかもしれない。
あと、予想以上にゴンとキルアの絡みが濃厚だったので、腐フォビアの人が反応してるのかも?とも。

でも、背景にあるテーマがとてもしっかりしていた。特に「人形」というキーワードでキャラ個々の背景と物語り全体を結びつけてみせる手腕はなかなかのものでした。

以下、色々感想含めて語ります。ネタバレなのでご注意下さい。


HxHと「人形」で思い浮かぶのはまずキルアのことです。「闇の操り人形」と兄に呼ばれている。映画冒頭でもそのことがまず示唆されます。キルアは人間でありながら自分が「人形」かそうではないか、という問いの中にいる。映画の物語もそこから始まっていきます。

次に、「人形」をテーマにする上で、心憎いのは舞台となる街の風景です。イタリア中部の風景をイメージしてますね。そしてその風景で思い浮かぶのはあの有名な童話、ピノキオ。人間になりたい操り人形の物語です。原作はフィレンツェ出身の作家が書いた童話で、ディズニーのアニメにもなりました。

悪役のオモカゲは人形師であり、他人の心の中にある誰かについてのイメージから、その「誰か」にそっくりで心も備えた「人形」を作ることが出来るようです。その「人形」は念能力ももっていて自由に動けるし強く、しかもオモカゲに絶対服従だとか。しかしオモカゲにつくれないものが一つあって、それは「瞳」です。そのため「人形」は生きている人間の瞳を盗まなければ魂を得ることはできないようです。そしてクラピカはそのために、「人形」として蘇った幼なじみのパイロから目を盗まれたのでした。

第三者の記憶から、動いて戦って心もある「人形」を作れるなんて能力としてずるいというか、ちょっとチートすぎますが、設定自体はなかなかドラマがあります。特に、死んだ人の思い出からその「人形」をつくるというとき、「人格の連続性」という問題が出てくる。生き返った「人形」はその人の偽物でしかないのか?幼なじみパイロの人形と葛藤したクラピカの苦しみはここにつながります。

また、この「人形」にはピノキオ的な「操り人形」の意味があります。そして「操り人形」は「役者」のイメージとも重なります。オモカゲが物語最後にいうように「人生は劇場人間はその役者」だからです。オモカゲにとっては人間は不完全な役者だが、「人形」は理想の役者なのかもしれません(なお、「人生は劇場」というのはイタリア南部にあるオペラの発祥地、ナポリの人々が言ったことでもあります)。
同時に、人形とは自分の納得する生を生きられない、「操られた」状態にある人の比喩でもある。そこでキルアのトラウマにつながります。そしてクラピカにも。何故ならクラピカにも、過去のための「復讐」から自由でない、トラウマに操られたような部分があるからです。

「人形」のテーマが最も凝縮されているのは、オモカゲの妹、いや、正確には彼自身が妹の記憶から作った「人形」であるレツです。オモカゲは自分の術の完成のため妹を犠牲にしたことを悔いていたのでした。従って「人形」状態のレツは死者の蘇りであり、かつ操り人形であるという二重の問題を体現しています。そこにパイロの問題と、それを見るクラピカの問題、そしてキルアのトラウマが重なります。

ところで、レツは通常、「安全のため」少年の姿で旅をしており、ゴンとキルアにも男の子だと勘違いされます。この演出はどうしてだろう?というのが映画を見てて少し気になった部分でもありました。
まず、「恒常的に本来の性別を偽っている」というのを、本来の自分を生きていないということを示す演出として捉える事は出来ます。そして実際、彼女は途中で女の子の格好になります。
ただ、皮肉なのは、このとき「本来の自分」にもどっていくはずのレツの女装が、普通の女の子というよりは「まるで人形のような」女の子の服装でもあることです(この辺、単にゴスロリっぽい格好にさせられたと考えてもいいのですが)。そもそも「人間の男の子のふり」をしていた彼女は、本当はオモカゲがまさに妹の面影から作った「人形」なので、本来の姿が人形であることが示されていると考えればいいということでしょうか。そのために「男→女」というジェンダー転換までしてみせたという理解でいいのでしょうか…?本当にそれだけ?

引っかかる理由がもう一つ。
彼女は最後に、兄オモカゲのとどめを刺す役割をも負います。「私が生きていたらこうした」と語り、ゴンとキルアに「ふたりのおかげで『ほんとう』を生きることができた」と告げてこの世を去っていきます。「ほんとう」を生きるとは何か?作中では明確に示されませんが、おそらく「他者に用意されたわけではない、自分の意思で選んだと思える人生」のようなものでしょう。
では、レツにとって、兄に最後をあたえることが「ほんとう」であったのか。それはどういう感情なのか?
「これ以上兄に罪を犯させないため」と考えると収まりがいいですが、ここで、レツが最初少年のふりをして出てきたことや、ずっと「僕」が一人称であることも、微妙なニュアンスを生んでいる気がします。
というのも私は、この時の殺意が「自分を犠牲にして、しかも人形としたことへの怒り」も混じっていたように感じられてならないのです(ただし制作陣はそこまでの気持はないようですが)。
その昔、女性の自立を描いたイプセンの「人形の家」という話がありました。「人形」は女性がかかわる場合、性的な支配の比喩を帯びることもあります。なので、レツが少年のふりをするのは、もともと心に隠れた兄の支配への反抗を表しているのではないだろうか…?何だか深読みしたくなります。

最後に、この、「人形としての人生」に対立するものとして提示される「ほんとうの人生」という言葉ですが、ゴンとキルアの反応も、きちんと本編を反映していて色々想像させます。ゴンは「それは何だろう?」と問うけれど、すぐにやりたいことを考え出す。キルアは「うっ、やりたいことが何もない」と気づいたあと、ゴンに「一緒にいよう」と誘われて「俺のほんとうがみつかるまではこいつと一緒に」とモノローグが続きます。アルカ編を知っている我々としては「ああ…」となるわけです。

この物語で、唯一色々と踏ん切りが付いたのは、レオリオに色々言ってもらえて過去と折り合いを付けた(ようにみえる)クラピカだけなのかもしれません。

とまあ、長々語りましたが、色々な方向に想像を展開させることが出来て、楽しい映画でした。


あ、ゴンキルはおいしいです。キルアがレツといるゴンに露骨に嫉妬したり、「俺はゴンを裏切るのか」「友達なのに」としつこくアップで苦悩してくれます。
あと、イルミの格好が斜め上にセクシーです。

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