"ハガレン考察"カテゴリーの記事一覧
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もう2022年ってすごいね。
えいがのおそ松さん見てから3年近く経とうとしてます。PR -
支部にあげた絵ですが、こちらにもうpっておきます。情報を集約するのがすきなので。そしてせっかくなので少し語ります。
エンビたんにメロメロになってしまったそのときから、その背中の赤い模様がだいすきでした。
あれはいったいなんなんだろうとか、何かのしるしみたいだな、いつか謎はわかるのかなとか考えながら、背中が見えるたびに凝視していました。結局わからないままだったけど。
エンビたんの場合、服(だよね?)にもあのマークが浮いているので、肌にあれがあるのか、それとも装飾品なのか何だかよくわからなくなるんですが、真エンビになったときも額に模様があったから(背中のは消えてたけど)、きっと脱いでも模様が残るんだよね?って信じてる。
話戻りますけど、身体にくっきりしるしがあるって個人的に萌えなんです。ウロボロス刺青も最高だけど、背中のアレは何かの設計図みたいで、エンビたんが何らかの運命に縛り付けられているあかしなんじゃないかとか妄想が膨らみます。あと、背中だけでなくて額にしるしがあるのも個人的にポイント高いのです。
というのも、昔読んだ文学名作にヘッセの『デミアン』て本があり(確かBL好きな文学女子に愛されてる話です)、そのなかに「額にしるしのある罪人」っていう話が出てくるんです。その元ネタ自体は聖書のカインとアベルの話で、弟のアベルを殺した罪人、カインの額に神様がしるしを付け、そのしるしを見て人々は気味悪がったという話です。ただし、物語の中ではデミアンという不思議なところのある少年が、しるしの意味を読み替えてしまいます。デミアンは、カインは他の人が持っていない勇気と異能の人だったのではないか、だから周囲に恐れられて、「しるしを持つ人」として語り継がれるに至ったのではないか、というのです。エンビたんは間違いなく他とちょっと違う人で、七つの大罪の一つですから、なんだかちょっとだけ重なるようでうれしくなる話です。
長くなってきたのでこの辺でやめますが、あの模様を見ると、しるしのある異能の人、運命づけられた身体、というあたりの妄想がむくむく膨らんでくるという話をしたかったのです。
もちろん、刺青のあるぴちぴちしたふとももを持っているということの素晴らしさはいうまでもなく、それについて書くともっと長くなるから本当にこの辺でやめることにします。 -
ごぶさたしてました。
鋼一期が再放送しているためか、エンヴィーを好きな方と出会う頻度が僅かに上昇していてむちゃくちゃ嬉しい春です。
久しぶりにtwitterでエンビたんの話題もりあがったりして、 ヤダ何コレ幸せ、的な…(´ω`*)
で、一期鋼(最終回あたり)見直したりしてたんですが、エンビたんちょっと原作と違うけど、脚本がやっぱいいですね。
原作と一番違うのは良くも悪くも「罪」と「責任」についての描き方かなあ。
前にtwitterでも書いた気がするけど、一期のメッセージは「どんな状態でも生きていればいいというわけではない」「消せない罪がある」で、だからどうすればいいかって話なんですよね。対して原作は「生きていればそれでいい」「罪を犯してもやり直せる」がメッセージだった気がする。
たとえば一期のスライサーは「オレの弟が人間であるように、お前達も人間だ」と言うエドに、「こんな姿で生きていかねばならない俺たちを人間扱いするのがどれだけ残酷か分かるか」「外の世界に出ても俺たちは死刑になるだけ」と切り返す。そしてエドは自分がホムンクルスとして生き返らせてしまった母親(のコピー)を再度葬る。そして最後には、生まれ故郷で生きることすら断念する。幼なじみと過ごしたやさしい世界にエドは戻ることができず、錬金術も使えなくなるのだ。それは新しい人生の始まりではあるが、許されていた子ども時代が完全に終わったことを象徴するかのようでもある。ただし、唯一の慰めは弟のアルが(まるで伴侶のように)ついてくるということであるが。
対して原作ではエドがスライサーをも人間扱いした、エドにとっては人間の範囲が広い、というところが重要視される。また「罪が許された」類のエピソードが頻出する。たとえばエドが「実は罪を犯していなかった」という展開にはじまり、最終回あたりではプライドに対して赤子になり生まれ直しを許してしまうことや、スカーが生き残る、など。特にプライドについては、母親に憧れていたという点を除けば、彼は一番の黒幕であり残忍極まりない存在であったはずだが、その問題な素質がなくなったのかは問われないまま、作品世界は赤子になったプライドの存在を許容する。まるで善人も悪人も等しく愛し飲み込もうとする母のように。
あまりこういう一般化はよくないかもしれないが、一期はやはり男性的(ただし主に父ではなく子の立場としての)な価値観で、原作は女性的な(それも母性的な)価値観が前面に出ているように感じる。
罪悪感や責任にこだわり、人を常に裁いたり、人に裁かれたりということを気にしている精神の産物が一期鋼だ。その世界観の中では人は容易に許されない。または許しに甘んじてはいけない、とされる。精神的なレベルでは意外とマッチョな価値観なのだ。
対して原作の方は、とりあえずどんな子でも「罪を悔いてまっとうな人間になるならば生きていてよい」のだ。ただし、その子が家庭的なコミュニティに悪意を持って破壊しようとするような子でない限り、という条件付きではあるが。それゆえ、良き父を殺したエンヴィーや、家族の絆を否定するホムンクルス=お父様は許されなかった。彼らはどうあがいても「いい子」にも「良き親」にもなりようがないからである。
まあ、こういう解釈もあるよ、ということで。 -
私見ですが、鋼の錬金術師には2.5人のヒロインがいると思ってます。それは、ウィンリィとロゼでまず二人、そしてあと0.5人は……エンヴィー(笑)。
何故そう思うのか、二回に分けて書いていきたいと思います。
1.ウィンリィとロゼの比較 「幼なじみ」VS「旅先で出会うミステリアスな美女」
原作を読む限り、メインのヒロインは間違いなくウィンリィで、ロゼはちょい役のゲストでしかない、というのが素直な感想かと思います。しかし、荒川さんが本編の前に作っていた「プロトタイプ」を見ると、少しその印象が変わってきます。もちろん、プロトタイプはあくまでも鋼本編とは違うし、エドの性格も違います。それでも「沙漠を旅する二人が出会った少女」としてのロゼの存在感はまさにヒロインとしてのそれ。つまり、鋼が短編として終わるならば、明らかにロゼのような「見知らぬ土地で出会った未知の少女」がヒロインとして収まりがよい、ということがわかるわけです。
原作の5巻くらいまでの段階をもとにオリジナル展開を作った一期アニメではロゼの扱いが大きくて、原作を忠実になぞった二期アニメでウィンリィの扱いが大きいのも示唆的です。
まず、一期アニメは、今より遙かに「新人」であった荒川さんの意図を超えたところで、ベテランおじさんプロデューサー・脚本家達が話を作ってしまったという部分があります。良くも悪くも、それで違う方向に話が発展したことは周知の通りです。そして見て取れるのは、ロゼの方がこれらの男性仕掛け人達にとってはイメージを膨らませやすい王道ヒロインだったということですね。
さすがにロゼが子どもを産んだあとの続編映画のシャンバラでは違うヒロイン、ノーアが出てきましたが、これが更にミステリアスなロマ族の「旅の女」であることはやはり特徴的です。ノーアは落ち着きを運んでくる存在などではなく、少年を更なる旅にいざなう存在。どうも一期の仕掛け人はそっち系のミステリアスヒロインつくりに走って行く。
そしてシャンバラに於いてウィンリィは「もう待たせてくれないんだね」とか言わされちゃうわけで。
これは驚くことでも何でもなく、もともと旅する(日常系ではない)少年漫画の王道は「旅先で出会う未知の女性」です。70年代の超古典、銀河鉄道999のメーテルは典型例。80年代になると日常系ラブコメ系の少年漫画(あだち充とか高橋留美子)の中で「幼なじみ」ポジションの女性が出てきてヒロイン(大抵は高校などで初めてで会う女性)の強力なライバルになるという図式があり、90年代に入ると更に幼なじみが優勢にすらなる傾向(ドラクエ5など)もありますが、逆に言えばそれだけ、もともとは「大人になってから出会う未知の存在」が強かった、ということではあると思います。
(参考:「一体いつから───────幼なじみが正統派ヒロインと錯覚していた? - 藤四郎のひつまぶし」 http://d.hatena.ne.jp/alphabate/20130205/1360039451)
実際には少年はいつか年老いて、中年となり「未知」だった女性と結婚して家庭を築いたりするわけですが、それでも性懲りなく少年漫画では「謎めいた未知の女性」ヒロインが量産されているわけです。
一期アニメはそういうわけで、少年および中年男性の欲望に忠実に、旅する少年用ヒロインを前面に出した作品となっていました。
対して、二期アニメおよび原作は、「幼なじみヒロインが強い」展開の典型です。それに加えてもう一つ私が感じたのは、実に女性の、もう少し正確に言い換えれば「ヘテロセクシュアルで安定志向の強い女性」の欲望に忠実な展開だなあ、ということでした。というのも、「幼なじみ」ポジションを保持しながら、仕事と結婚、出産とエスカレーター式に手に入れるウィンリィはヘテロ女性の「ザ・安定」を体現するように見えるからです。恋人を亡くして傷心のロゼ、迫害される旅人のノーアなどと比較すればその人生の安定度は半端ありません。
まず、少年エドは外の世界に出るけど故郷に帰ってきます。そしてウィンリィは「幼なじみ」からそのまま主人公の嫁になり、母となる。この展開、物語の流れとしてはエドが自主的に決断してリゼンブールに戻ってくるわけですが、ウィンリィの側からみると実に都合がよい。実際、彼女は全く何も失っていません。幼なじみで兄弟のように育った同じ髪の色をした少年と、ちょっと冒険したあと居心地のいい家庭的で清潔な世界を作る。しかも夫となるエドは適度に外で「冒険」し、飼い慣らされているわけではない男性性を示し(「つまらない男じゃない」と思わせてくれる)ながら、肝心なところでは家庭生活の枠に収まってくれるわけですから。マスタングみたいに危険でよくわからない壮大な野心に直接邁進するわけではありません。「安定したい」タイプの女性の願望のスケールに収まってくれるのです(実際にはあの世界だから、エドも危険なことをするのでしょうが、漫画の範囲ではそこは描かれていません)。
この辺色々考えると、二期(原作)のウィンリィは勝利する「幼なじみ」ヒロインであるだけでなく、堂々たる欲望の主体という感じすらします。
長くなったので、この辺で一回切って、次回は私の本命であるエンヴィーとウィンリィについてその違いっぷりを書きます。 -
ついったーしてて気づいたのですが、今日は鋼の錬金術師一期アニメの放映十周年にあたるようです。
私は2008年頃、二期アニメ放映直前に、偶然の経緯で原作を読んでハマった口なのであまり大したことは言えないんですが、それでもこうして知ると感慨がありますね…!
そして考えてみれば、その2008年というのは一期アニメ放映からは五年にあたる時点だったわけで、2003年、2008年、2013年とならべてみると、私が鋼ファンになってからも既に5年もたつということでもあります。これにもびっくり。
2008年の時点では、一期アニメは「ちょっと前のアニメ」くらいの感じだった。原作を先に読んでいたので、よく知らないままとりあえずツタヤで借りて「ん?何か話違う?」となったのも今は懐かしい思い出…。
でも今は「十年前は…」って語られる対象なんですね。一つ時代が過ぎた。
ちなみに2003年となると、私まだ、実は二次創作始めてないんですよね。アニメも見てなかったブランクの時期です。イラク戦争大変、とかそういう記憶しかない。
同人はオンラインで、2004年からはじめるんですが別ジャンル(ドラクエ)でした。
当時はエンビたん(一期)アンソロジーとかが苦もなく出来た黄金の時代だったらしいですね。コミケでも記録作ったりして。その頃を全然しらないよ…。悲しいね…。
あんなことやこんなことがしたかったな。
でも、遅ればせながらでも、エンビたんと会えてよかったです。
ということで、十周年おめでとうございます。 -
エンビたんは帽子が結構似合うんじゃないかって思ったのでらくがきしました。
かっこいい私服思いつかなくてちょっと何かのバイトのダサ制服みたいになっちゃったけど…スイマセン
エンビたんは怪しいバイトとかかけもちしてそうです。しかもけっこう働き者だったりして。
でも詰めが甘いからえらくはなれなくてパシリ。
あ、あと厨房が見える系の飲食店で、黒Tシャツに長くて黒いエプロンで忙しく動き回ったりするのも似合いそうです。いずれも脚線美が見えなくなってしまうのが残念のきわみだけど。 -
気がついたら鋼サイトの方が5周年を迎えてました。
早いなあ。
何だかあっと言う間で、でも思い返せば色々なことがありました。地味に人生で一番変化があった5年間だったのかも。
サイトの更新がすっかり鈍ってしまってますが、エンビたんのことはずっとずっとだいすきです。ここまで好きでいたので、これからもひっそりずっと好きなような気がします。
最近忙しい中にもちまちま鋼を読み返したりしてたのですが、どうひいき目に見ても、エンビたんはあまり作者の方の思い入れがあるキャラではなかったんだな、と改めて思いました。いや、ま、確信はあの伝説の初期設定エンビたんを見たときに訪れていたわけですがw
アレを見るまでは私、心のどこかでまだ誤解してたんですよ。エンビたんはワンノブゼム、大勢の雑魚の一人ではなく、物語の中核にいて、主役エドワードと対をなす存在として生まれたのだろう、でも少年漫画だから抑えめの記述になったんだろうとか何とか。勝手に妄想しつづけてました。でも違った。
エンビたんはほんとに偶然のアクシデントのようにこの世に生まれてきたのですね、きっと。
ちなみにこの思い込みの背景には、もう一つの誤解があって、こんな事書くと怒られそうだけど、でも書いちゃうと、私、最初の頃はどちらかというと「適当に作られた」のはウィンリィちゃんなのカナー、とか、思ってたんですよね(ゴメンナサイゴメンナサイ)。
「少年漫画だし、とりあえず読者のために美少女でも与えとけ」的なノリで作ったんだろうと。
だから、エンビたんの方が作者のオルターエゴといういうか、光のヒーローであるエドと対をなす「もう一人の主人公」的存在で物語の核心に触れているに違いない!とか勝手に思いこんでて、エンビたんが劇的な最後を遂げたときはその気持ちがマックスになりました。
もちろん、最終回にきたときは流石にアレ?となったわけですが、それでもどっかでその可能性を信じてた気がする。
だけど、全然違ったんですね。色々調べていくほど、むしろその真逆であったことがわかってくる。
つまり、どう考えてもエンビたんの方が「とりあえずバランスとるために、そこそこかわいい顔を入れておくか」と、偶然のような経緯で生まれたキャラであり、ウィンリィちゃんの方がむしろ作者が思い入れを持ってきちっと最初からデザインされ、描かれてきたキャラである可能性が高い(途中ちょっと忘れてた?って気がしないでもないけど)。
これに気づいたときは地味に衝撃でした。どういう衝撃かって言うと、いやー、世の中にはほんとに自分と全然違う人間がいるんだなっていう驚きですね。当たり前と言えば当たり前なんだけど、実感したんです。それと、マンガの才能っていうものが何なのか、とてもよく分かった気がした。
私はウィンリィちゃんがすごい「いい子」で普通なもんだから、こういうキャラを思い入れを持って作るのは物語の作り手としては難しいだろうって勝手に思いこんでいたんです。要は自分が理解出来ないタイプ、自分の頭の中からは全く出てこない類の女の子なもんだから、完全に勘違いしてたんですね。
でも荒川さんは、そういう「普通」にこそ思いいれがあって、それでいながらこの私の心に響くエンヴィーのようなキャラを(あまり思い入れなく)作れちゃう。これはもう才能だなと。荒川さんの頭はキャラに命を吹き込めるんだと。
そう気づいて以来、ウィンリィちゃんを動かせるかっていうのが割と私の中で二次創作の挑戦になったりもしたんですが、まあそれは別のお話。
とまあ、この辺もふくめて、鋼はほんと色々なことを考えさせてくれる作品でした。
そしてエンビたんはいつまでもえっちでエロかわいくて、ほんとに最高! -
ハガレン第27巻、ついに発売されましたね〜。きらきら光るタイトルを見て、ついに…という気持ちになりました。
そして、昨日寝る前についったーに投げましたが、11月22日というこのタイミングで、エンヴィーアンソロジー企画用のサイトを立ち上げました。
こちらです。
(余談ですが、サイトアドレスは http://envy.ma-jide.com/ 「エンヴィーま〜じで、ドットコム」とお覚え下s…どうでもいいですね)
アンソロの販売自体は映画公開のある2011年夏、原稿募集は来年初頭を予定しています。
本サイトからもリンクを張る予定です。
まだ少し先ですが、ミニアンケートなど、企画をちょこちょこやっていきますのでどうぞお気軽にお立ち寄り下さい♪
とりあえず今は、
Q. エンヴィーの心の性別は何だと思いますか?
http://envy.ma-jide.com/enquete.html
というアンケートで皆様のご回答を募集していますw