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「それは「夢の言語」「隠喩の言語」だったの。トラウマを経験した人ならわかると思うけど、分厚いアスベスト対策用の手袋をつけないと扱えないようなことがあるの。そして、性的または肉体的な虐待を受けた人々(*3)は自ら暴力的な傾向をもつことがあるというけど、わたしはそうではなく、ああいうかたちで作家になった。」オオカミ少年は真実を語れるか 世界を騙したJ.T.リロイ=ローラ・アルバートの狂気と正気より
J.T.リロイは「性的虐待を受けて育ち男娼になった少年の自伝」として数冊を売ったあと、実は正体が40代の女性作家(=ローラ・アルバート)だということがわかり、大スキャンダルとなったひとだ。私はリロイの本(『サラ、神に背いた少年』)を持っていたし映画も見ていたので、その事を知ったときはショックを受けた。だけど、それとは別にローラ・アルバートという女性が何故そんな形で物語を書いたのかということに強烈な関心を持った。
調べて分かったのは、彼女自身が性的な虐待を受けたことがある人だったということだ。
つまり、性的トラウマを持った女性が、性的虐待を受けた少年の物語を(半ばセラピー的に)書いていたのだ。そして私にはそのことが、自分の好きなものや、これまでしてきたことを理解するためにも重要であるように思えた。
一般に、トラウマを癒す方法として、過去の辛かった場面を安全な場所で想起し、再体験する、というものがある。それによって自己コントロール感を取り戻すのだという。ならば自分と似た体験をした人間の物語を敢えて書く(描く)ことで、その種のセラピーを試みる人もいるだろう。
でも、そこで思うのだけど、性的なトラウマのある者にとって、女性の肉体をまとう存在を思い浮かべることが、もうそれだけである程度不安を呼び起こすこともあるんじゃないか。少女がレイプされる物語など、もうそれだけで身につまされて嫌だし、何より自分が陥っていた(あるいは今も陥っている)無力な状態を思い起こさせる。何故なら、この社会は常に女性を性的な暴力に晒し、無力化し続けているので。
そこで安全な感情移入先として、美しさでは少女に似ているが、より傷つく部分の少ない少年、それも大きくなればレイピストをも力で圧倒しうるかもしれない少年を選び、物語を書く(描く)という行為が選ばれることもあるんじゃないだろうか。
たとえば、性的虐待を受けて苦しみ、自己のコントロール感を見いだすために売春をしたり、もしくは救われたくて恋愛をしてみたけど相手に精神的な暴力を振るってしまったり、という苦しい物語を少年の身体を持つキャラにより表現することで、何らかのカタルシスを得ることがあるんじゃないか。
同じではないにしても、自分がBL二次創作をするときも、ある程度似た心理が作用していた気がする。自分は性的虐待まではされてないけど、何かの傷付きや、しんどかった気持を追体験しようとするような作品は少なくない。創作している時は単純に楽しんでいただけで、そんなつもりは全然なかったんだけど、今ふりかえって10年くらいの間に(描き)書きためた作品を眺めるとそんなことを感じるのだ。少なくとも話の展開に萌えだけではない要素が入り混んでいる。いや、トラウマが萌えの原型(性癖)を作ってしまっている、というべきか。
実際問題として、自分が心惹かれる主題は基本的には「性的虐待のトラウマ」「売春」のどちらか、あるいは双方を含むものが多い。
BL二次創作一般では多数派とはいえないが、少年が大人に性的な虐待・いたずらをされるシーンをとてもうまく描く作品は、女性向け作品には少なくない。しかも、その後のPTSD的状況までかなりしっかりと描くものが散見される。
更に言えば、その手の物語の描き手(書き手)には、はっきりと性的トラウマ(たとえば子どもの頃性的な悪戯を受けたなど)の自覚が見られることすらある。もちろん逆に、全くそうではないこともある。
決して多数派にはならないが、そうしたトラウマを背景に創作する人というのは常に一定数いるように思う。特に、自分がそうだからいうのだが、成人男性より少年を強く好む人には、何か独特な、抱えているものがある人もかなりいるのではないか。
自分も含めそういう心理的背景を持つ人々が、いわゆる成人男性同士の物語が好きな人々と一緒になって、「BL」や「女性向け二次創作」の人気を支えているのではないか。そんな気がしている。
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コメント
1. 無題
甘いお話を書きたくても、男女を書くよりBLはよりハードルが低い。
男女でのリアルを踏まえて物語を書こうとすると価値観の違いや物差しの相違の表現に煩わしさを感じる。
そう、感じる事自体に自身のトラウマがあるのかなと、拝読して思いました。