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7.新宿
男に再会したのは次の日の夕方だった。6時くらいはまわっていたと思う。
あまりにも早すぎる展開でびっくりしたが、何でもその日仕事で新宿にいるので夕方くらいに時間が取りやすいという。ここにも休日に働いている大人が一人。
「会えて嬉しいですよ。」
男は言った。
折角だからお茶か食事でもどうですかと誘われ、俺は受け入れた。
帰りが遅くなるのはいやなので食事をする気はないこと、新宿からは地下鉄で帰ることを告げたら、では駅に近い場所に入りましょうと連れて行かれた。
入ったのは駅の南口、線路沿いの広場にデパートやらオフィスやらが建ち並ぶ区画にある高層ビルのホテル。それも二十階にあるカフェラウンジ。
「ここの眺めが好きなんです。」
立ち並ぶ高層ビル群を眼下に、くつろいだ顔で男が微笑む。本屋にいたときとまるで変わらない屈託のなさだった。
いつものスーツではなく、落ち着いた色合いのジャケットにチノパンを合わせ、ノーネクタイだった。休日出勤で、オフィスは殆ど無人だと笑っていた。
「このホテルによく来るんですか。」
「そうですね。仕事のあとにラウンジで一杯。」
ぴしっとした制服を着たボーイがメニューを持ってくる。受け取るとき動作がぎこちなくなって、変に緊張している自分が少し悔しくなった。
別に大した場所じゃない。そのホテルもラウンジも、ごく普通の仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人々も入っていくような場所だった。
だが、それでも落ち着いたグレーのカーペットがゆったりと敷き詰められ、座り心地の良さそうなデザインソファをあしらったその空間は、俺の生活世界とはかけ離れたものだった。
ずっと昔、アメリカにいた頃にこんな場所を知っていたようなうっすらとした記憶はある。だが、それを除けばもう随分長い間、俺は下町の高校生として生きてきた。学校と家とを往復し、時々バイトに出かける以外、とりたてて変化のない日々。
メニューには色々と分からないものが書いてあったから、適当に紅茶を注文した。相手は俺の聞き覚えのない飲み物の名を口にした。それは何ですかと聞いたら食前酒だと言った。
「あの、本を…どうもありがとうございました。」
俺は早速本題を切り出した。包みをテーブルの前に置く。
「もう読んだのですか?早いですね。」
ええ、まあ、とごまかすことが出来ずにこう言った。
「…少し読んだのですが、難しくて。すぐに読めそうになかったので、一旦お返ししようと思いました。」
嘘ではないが、本当でもなかった。相手はそうですか、と頓着がない。
飲み物が運ばれてきて話題が途切れる。
何となく沈黙が降りた後、男が不意に言った。
「実はあなたのことは、よくあの本屋で見かけると思っていました。」
はあ、そうですか、俺は背中がむずがゆいような感覚を覚えながらとりあえず答える。
ナンパが始まったのか、やっぱりこいつは三谷以上の「本物」なわけだ、と頭の中でわざと茶化し気味のツッコミをいれてみた。
気分は落ち着かない。恐いモノ見たさ、とでもいうか、我が身のことなのにこの先の展開を高みの見物しているみたいな感じだ。
そういえば中学の時、出会い系サイトにいたずら書き込みして、男が本当に待ち合わせに来たのを見て友だちと物陰で笑うという不毛なことを繰り返してた女子がいたが、あいつらもこんな気持ちだったのだろうか?
だとしたら俺も同レベルだ。
さあどう勿体ぶった口説き方で来るか、と思ったら、案外相手はあっけなかった。
あなたとこうしてお茶が出来て私はとても嬉しいのです、と教科書英語の直訳みたいな変な台詞を恥ずかしげもなく口にした後、
「私はあなたのような男の子が大好きですから。」
まるで天気の話題をするようにあっさりと言い、グラスを傾けたのだった。
「…あの、ドウセイアイシャ、なんですか。」
「はい、そうです。」
相手は自分の髪の色でも訊かれたようにさらりと答えた。まるで屈託がない。
俺は少し拍子抜けして、なんかペースを崩されてるな、とぼんやり感じる。
「ですが、安心してください。あなたと話したかったのはむしろ別の理由です。」
「はあ。それはどんな?」
「…とても、奇妙な話です。」
言いかけて男は口ごもり、視線を戸惑うように彷徨わせた。会ってから初めて見た表情だった。男の子が、同性愛がどうのというときは微塵の躊躇いもなかったのに。
「あなたは、ファンタジーが好きですよね。」
「ええ、まあ。」
「そういう夢を見たことはありますか?別の遠い場所にいるような…不思議な夢を。」
「…え?」
どきり、考えるより前に心臓が音を立てた。
「すみません、突然でびっくりしますね。私も自分で驚いています。こんな話をする自分は…とても奇妙です。」
そこでまた、数秒躊躇った。相手の緊張が感染して、ごくりと俺は唾を飲み込む。相手はふう、と短いため息をつき、意を決したように話し出した。
「私は、子供の頃からときどきそういう夢を見るのです。風景は、そうですね、それこそ私たちの好きなファンタジー物語みたいな場所です。もちろん夢なので、大抵のことは朝に目が覚めて、すぐ忘れてしまうのですが…」
胸が早鐘を打った。ちょっと待て、何を俺はこんなにドキドキしているんだ。
「そこで、あなたにとてもよく似た少年を見たことがあるような気がするのです。」
とっさに浮かんだのはフードをかぶった子供の姿。
「ただし、それは今のあなたではないのです。もっとずっと小さい、子供です。でも、本当によく似ているのです。だから、あなたを本屋で初めて見かけたときはとても驚きました。まるで夢が現実になったみたいな気がしたから。」
俺はとっさに反応できなかった。自分でも何にこんなに衝撃を受けているのかわからないまま、ぽかんと口を開けている俺を見て、呆れられたと思ったのだろう。相手は間の悪そうな顔をした。
「貴方は私のことを、変な話をするガイジンだと思ってるでしょうね。」
いえ、と俺は短く答え、自分の話をするべきか迷った。
まだ相手への警戒が消えていなかったからだ。だいたい、こういうのもナンパの手口かもしれない。俺はとことん疑い深かった。
だが誘惑に耐えきれず結局は口にした。俺もそういう夢を見ることがあります、と。
どういう反応が返ってくるかと思ったが、相手の反応は予想したよりもあっさりとしたものだった。
そうですか、面白いですね。不思議なことが世の中にはあるものです。
だが、ありありと表情が晴れやかになり、穏やかな笑みが口元に浮かんだ。ただの夢の話でいい大人がこんな顔をするのは初めて見ると俺は思った。
そういえば、ごく僅かな面白くもない思い出を除き、大人の男というものを俺は身近に知らない。
そこから後の展開は拍子抜けするくらい平和だった。
見知らぬガイジンと、ホテルのラウンジでひたすら和やかに会話してしまった。
それも結構オタクな話になった。ロード・オブ・ザ・リングの映画の話やら、実際の中世の甲冑の重さの話やら。
だから一気に警戒心が緩んで、相手がメールアドレスが欲しいと言ったとき、パソコンのフリーメールくらいならいいかと思い、渡してしまった。
しかも話し込んでしまい、気づくと8時を過ぎていた。夕食を勧められたがそこは断った。
遅くなると言ってあったし、今日は叔母も家にいるので心配はなかったが、やはり一人で帰り途中ラーメンでも食べる方が気楽だと考えていた。
夜景を眼下に見下ろした高い塔の上から広場へと降り立つ。
すっかり夜が深くなり、一部のレストランと仄かな灯りのついたままのショーウィンドーを除き、あたり一面を暗闇が支配していた。広大な広場の向こうには摩天楼がそびえ、星明かりのかわりに煌めいている。
そして広場のわきにある薄暗い木陰には、よく見ると等間隔にカップルが座っている。
この場所を通り抜けていくのかと思ったとき、なんとなく、夜の雰囲気に背中が緊張した。
すると男がふいと左に曲がり、広場からビルの間の脇道にそれていく。
「こっちからの方が駅に近いですよ。」
俺は何だかほっとしてついていった。
だが、ビルの間をぬけて駅方面へと続く遊歩道には人の姿がなかった。
相手は無言。俺も無言。また緊張してきた。
そのときだ。遊歩道が終わり、駅に面した車道へと降りる階段にさしかかったとき、相手が言った。
「正直を言うと、本当に電話をくれるとは思っていませんでした。」
「…そうですか。」
「しかもあなたのような人といて、魔法や不思議な世界の話をした。そのことに自分でもまだ驚いています。実に面白い。」
かすかに微笑する気配がした。
「普通なら…どんな話をするんですか?」
階段の踊り場で男が立ち止まった。振り返り、俺を見上げる。
青白い外灯に照らされ灰色を帯びたその瞳に捉えられ、俺は思わず息を呑んだ。
「…知りたいですか?」
答えようとして、とっさに声が出なかった。
手が伸びるのがスローモーションのように瞳に焼き付き、反射的に肩をすくめる。
ただ、二の腕をつかまれただけだった。
「…また、会いましょう。」
男が微笑み、その指に少しだけ力が込もる。
長袖Tシャツの薄い記事を通して、他人の指の、少し高い体温が生々しく絡みついた。
別にそれだけだ。
なのに狼狽え胸が早鐘を打ったのは、多分緊張と夜の静けさのせいだろう。
そして俺は呆然と身動きもできないまま、穏やかな声で男が告げるのを聞いた。
さあ、そこが駅ですよ。私はオフィスに戻ります。
一人、駅のホームへと続く階段を下りながらも、まだ指の感触が残っているような気がした。
思わず掴まれた部分を触る。感覚を紛らわそうとするように。
イノセント(8)につづく
【作者後記】
前回からすっかり間が開いてしまって…(汗
いろいろすいません。
男に再会したのは次の日の夕方だった。6時くらいはまわっていたと思う。
あまりにも早すぎる展開でびっくりしたが、何でもその日仕事で新宿にいるので夕方くらいに時間が取りやすいという。ここにも休日に働いている大人が一人。
「会えて嬉しいですよ。」
男は言った。
折角だからお茶か食事でもどうですかと誘われ、俺は受け入れた。
帰りが遅くなるのはいやなので食事をする気はないこと、新宿からは地下鉄で帰ることを告げたら、では駅に近い場所に入りましょうと連れて行かれた。
入ったのは駅の南口、線路沿いの広場にデパートやらオフィスやらが建ち並ぶ区画にある高層ビルのホテル。それも二十階にあるカフェラウンジ。
「ここの眺めが好きなんです。」
立ち並ぶ高層ビル群を眼下に、くつろいだ顔で男が微笑む。本屋にいたときとまるで変わらない屈託のなさだった。
いつものスーツではなく、落ち着いた色合いのジャケットにチノパンを合わせ、ノーネクタイだった。休日出勤で、オフィスは殆ど無人だと笑っていた。
「このホテルによく来るんですか。」
「そうですね。仕事のあとにラウンジで一杯。」
ぴしっとした制服を着たボーイがメニューを持ってくる。受け取るとき動作がぎこちなくなって、変に緊張している自分が少し悔しくなった。
別に大した場所じゃない。そのホテルもラウンジも、ごく普通の仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人々も入っていくような場所だった。
だが、それでも落ち着いたグレーのカーペットがゆったりと敷き詰められ、座り心地の良さそうなデザインソファをあしらったその空間は、俺の生活世界とはかけ離れたものだった。
ずっと昔、アメリカにいた頃にこんな場所を知っていたようなうっすらとした記憶はある。だが、それを除けばもう随分長い間、俺は下町の高校生として生きてきた。学校と家とを往復し、時々バイトに出かける以外、とりたてて変化のない日々。
メニューには色々と分からないものが書いてあったから、適当に紅茶を注文した。相手は俺の聞き覚えのない飲み物の名を口にした。それは何ですかと聞いたら食前酒だと言った。
「あの、本を…どうもありがとうございました。」
俺は早速本題を切り出した。包みをテーブルの前に置く。
「もう読んだのですか?早いですね。」
ええ、まあ、とごまかすことが出来ずにこう言った。
「…少し読んだのですが、難しくて。すぐに読めそうになかったので、一旦お返ししようと思いました。」
嘘ではないが、本当でもなかった。相手はそうですか、と頓着がない。
飲み物が運ばれてきて話題が途切れる。
何となく沈黙が降りた後、男が不意に言った。
「実はあなたのことは、よくあの本屋で見かけると思っていました。」
はあ、そうですか、俺は背中がむずがゆいような感覚を覚えながらとりあえず答える。
ナンパが始まったのか、やっぱりこいつは三谷以上の「本物」なわけだ、と頭の中でわざと茶化し気味のツッコミをいれてみた。
気分は落ち着かない。恐いモノ見たさ、とでもいうか、我が身のことなのにこの先の展開を高みの見物しているみたいな感じだ。
そういえば中学の時、出会い系サイトにいたずら書き込みして、男が本当に待ち合わせに来たのを見て友だちと物陰で笑うという不毛なことを繰り返してた女子がいたが、あいつらもこんな気持ちだったのだろうか?
だとしたら俺も同レベルだ。
さあどう勿体ぶった口説き方で来るか、と思ったら、案外相手はあっけなかった。
あなたとこうしてお茶が出来て私はとても嬉しいのです、と教科書英語の直訳みたいな変な台詞を恥ずかしげもなく口にした後、
「私はあなたのような男の子が大好きですから。」
まるで天気の話題をするようにあっさりと言い、グラスを傾けたのだった。
「…あの、ドウセイアイシャ、なんですか。」
「はい、そうです。」
相手は自分の髪の色でも訊かれたようにさらりと答えた。まるで屈託がない。
俺は少し拍子抜けして、なんかペースを崩されてるな、とぼんやり感じる。
「ですが、安心してください。あなたと話したかったのはむしろ別の理由です。」
「はあ。それはどんな?」
「…とても、奇妙な話です。」
言いかけて男は口ごもり、視線を戸惑うように彷徨わせた。会ってから初めて見た表情だった。男の子が、同性愛がどうのというときは微塵の躊躇いもなかったのに。
「あなたは、ファンタジーが好きですよね。」
「ええ、まあ。」
「そういう夢を見たことはありますか?別の遠い場所にいるような…不思議な夢を。」
「…え?」
どきり、考えるより前に心臓が音を立てた。
「すみません、突然でびっくりしますね。私も自分で驚いています。こんな話をする自分は…とても奇妙です。」
そこでまた、数秒躊躇った。相手の緊張が感染して、ごくりと俺は唾を飲み込む。相手はふう、と短いため息をつき、意を決したように話し出した。
「私は、子供の頃からときどきそういう夢を見るのです。風景は、そうですね、それこそ私たちの好きなファンタジー物語みたいな場所です。もちろん夢なので、大抵のことは朝に目が覚めて、すぐ忘れてしまうのですが…」
胸が早鐘を打った。ちょっと待て、何を俺はこんなにドキドキしているんだ。
「そこで、あなたにとてもよく似た少年を見たことがあるような気がするのです。」
とっさに浮かんだのはフードをかぶった子供の姿。
「ただし、それは今のあなたではないのです。もっとずっと小さい、子供です。でも、本当によく似ているのです。だから、あなたを本屋で初めて見かけたときはとても驚きました。まるで夢が現実になったみたいな気がしたから。」
俺はとっさに反応できなかった。自分でも何にこんなに衝撃を受けているのかわからないまま、ぽかんと口を開けている俺を見て、呆れられたと思ったのだろう。相手は間の悪そうな顔をした。
「貴方は私のことを、変な話をするガイジンだと思ってるでしょうね。」
いえ、と俺は短く答え、自分の話をするべきか迷った。
まだ相手への警戒が消えていなかったからだ。だいたい、こういうのもナンパの手口かもしれない。俺はとことん疑い深かった。
だが誘惑に耐えきれず結局は口にした。俺もそういう夢を見ることがあります、と。
どういう反応が返ってくるかと思ったが、相手の反応は予想したよりもあっさりとしたものだった。
そうですか、面白いですね。不思議なことが世の中にはあるものです。
だが、ありありと表情が晴れやかになり、穏やかな笑みが口元に浮かんだ。ただの夢の話でいい大人がこんな顔をするのは初めて見ると俺は思った。
そういえば、ごく僅かな面白くもない思い出を除き、大人の男というものを俺は身近に知らない。
そこから後の展開は拍子抜けするくらい平和だった。
見知らぬガイジンと、ホテルのラウンジでひたすら和やかに会話してしまった。
それも結構オタクな話になった。ロード・オブ・ザ・リングの映画の話やら、実際の中世の甲冑の重さの話やら。
だから一気に警戒心が緩んで、相手がメールアドレスが欲しいと言ったとき、パソコンのフリーメールくらいならいいかと思い、渡してしまった。
しかも話し込んでしまい、気づくと8時を過ぎていた。夕食を勧められたがそこは断った。
遅くなると言ってあったし、今日は叔母も家にいるので心配はなかったが、やはり一人で帰り途中ラーメンでも食べる方が気楽だと考えていた。
夜景を眼下に見下ろした高い塔の上から広場へと降り立つ。
すっかり夜が深くなり、一部のレストランと仄かな灯りのついたままのショーウィンドーを除き、あたり一面を暗闇が支配していた。広大な広場の向こうには摩天楼がそびえ、星明かりのかわりに煌めいている。
そして広場のわきにある薄暗い木陰には、よく見ると等間隔にカップルが座っている。
この場所を通り抜けていくのかと思ったとき、なんとなく、夜の雰囲気に背中が緊張した。
すると男がふいと左に曲がり、広場からビルの間の脇道にそれていく。
「こっちからの方が駅に近いですよ。」
俺は何だかほっとしてついていった。
だが、ビルの間をぬけて駅方面へと続く遊歩道には人の姿がなかった。
相手は無言。俺も無言。また緊張してきた。
そのときだ。遊歩道が終わり、駅に面した車道へと降りる階段にさしかかったとき、相手が言った。
「正直を言うと、本当に電話をくれるとは思っていませんでした。」
「…そうですか。」
「しかもあなたのような人といて、魔法や不思議な世界の話をした。そのことに自分でもまだ驚いています。実に面白い。」
かすかに微笑する気配がした。
「普通なら…どんな話をするんですか?」
階段の踊り場で男が立ち止まった。振り返り、俺を見上げる。
青白い外灯に照らされ灰色を帯びたその瞳に捉えられ、俺は思わず息を呑んだ。
「…知りたいですか?」
答えようとして、とっさに声が出なかった。
手が伸びるのがスローモーションのように瞳に焼き付き、反射的に肩をすくめる。
ただ、二の腕をつかまれただけだった。
「…また、会いましょう。」
男が微笑み、その指に少しだけ力が込もる。
長袖Tシャツの薄い記事を通して、他人の指の、少し高い体温が生々しく絡みついた。
別にそれだけだ。
なのに狼狽え胸が早鐘を打ったのは、多分緊張と夜の静けさのせいだろう。
そして俺は呆然と身動きもできないまま、穏やかな声で男が告げるのを聞いた。
さあ、そこが駅ですよ。私はオフィスに戻ります。
一人、駅のホームへと続く階段を下りながらも、まだ指の感触が残っているような気がした。
思わず掴まれた部分を触る。感覚を紛らわそうとするように。
イノセント(8)につづく
【作者後記】
前回からすっかり間が開いてしまって…(汗
いろいろすいません。
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