忍者ブログ

庵版、貞版それぞれのカヲル その立ち位置と自我のあり方

注)以下の文章はエヴァンゲリオン、TV版と漫画版双方について台詞などネタバレ含みます。


1.裁定者と駒

庵野監督版第弐拾四話でカヲル(以下庵カヲ)は言う。

「さぁ、僕を消してくれ。そうしなければ、君らが消える事になる。滅びの時を逃れ、未来を与えられる生命体はひとつしか選ばれないんだ。そして君は死すべき存在ではない。」(TV版第弐拾四話)

庵カヲはまさに裁定者であった。ゼーレは制御の効かない存在を野に放ち、人間であるゼーレ指導部自体の運命をも含め、使徒である彼に決断を委ねていたのだ。カヲルの消滅後、シンジに世界の運命の決定が委ねられることを考えると、カヲルはいわばこのときシンジとその地位を争う立場にあったともいえる。 つまり、カヲルが人類の運命を左右する決定権を放棄することで、障害物の無くなったシンジが世界の運命を決める「神児」となるチャンスが生まれるという構図である。二人は、使徒の代表と人間の代表という形で向き合っているのだ。
カヲルはそれを当初より強く意識しており、おそらく最後まで個人としてはシンジに向き合っていない。自分は使徒という巨大な集合生命体の一部であり、それを代表する存在として在る。人間の一個体としての自我の有り様を超越してしまっているのだ。
ゆえに弐号機との融合についても「このまま彼女と生きながらえる」と語り、一人の人間としての姿が失われることを自分の消滅とはとらない。
彼は確かにシンジを、そして彼を通して人間というものを愛したようにみえる。だが、シンジとの出会いが彼のあり方そのものに影響を与えたかというと難しい。最初からカヲルには使徒としての自分に対する認識と、その上で可能ないくつかの選択肢があって、シンジとの出会いはその判断材料であった、くらいにみえる。
むしろ出会いにより大きな変化を被ったのはシンジの方だろう。
そのことから考えると、 庵版における第弐拾四話はあくまでもシンジの自我形成の物語であり、カヲルはその不可欠な一構成要素として存在するようにみえる。



それに対して、貞カヲは全く異なる自我の有り方を示し、そのことにより物語の性質を異なるものにしてしまう。
「このまま引き返したりしたら老人達が黙っていないだろう。あいつら速攻で僕を消すだろうな。もともと僕の命はあいつらが握っているも同然だからね。」(エヴァンゲリオン第11巻)

苦笑してそう言い放つ貞カヲはあくまでもゼーレの駒であり、人間(ゼーレ)にとっても意のままに制御可能な儚い存在として設定されている。
しかしそれだけに、一人の小さな個人としてシンジの前に存在する。彼は自分がアダムという大きな存在の一部分であることを自覚しつつも、この自分、たった一度だけの存在としての代わりの効かない自我というものを意識しているからだ。だから、サードインパクトが起きれば「僕という個体は消えてなくなるから…どうでもいい」と語る。
ところで、彼がここまで「かけがえのない自分」というものを意識するようになったのは、シンジとの出会いとコミュニケーションがあったからである。第11巻における三人目のレイとの邂逅シーンとその台詞がそれを物語っている。
面白いことに、貞本版第9巻〜第11巻における展開は、主人公シンジよりもむしろカヲルにとっての「自我の目覚め」の物語として読むことが出来てしまう。シンジ自身はトウジの喪失、アスカの心神喪失、それに続く三人目のレイの喪失により混乱していて、他の心の動きはあまり明確に描かれない。その一方で我々は、カヲルの前に実験室ではない人間の世界が立ち現れる様子を見守ることになるのだ。彼は主にシンジを通じて、このかけがえの自分と同じようにかけがえのない自我を持っている他者がいること、それが互いに関心を持ったり惹かれたり、反発しあったりすること、出会いがあり、別れがあることを身をもって知っていく。
正直これまでのところ、貞本エヴァは他者とのコミュニケーションをめぐるドラマが薄いなと感じていた。もちろんないわけではないが、良くも悪くも「健全」であり、庵版に顕著だったふれあうと火花が散るようなハリネズミのジレンマ、のような要素をあまり感じなかった。貞シンジが庵版よりも安定した人格の持ち主だったことも一因だろう。
だがカヲルの登場、特に第10巻以降になり雰囲気が変わった。特にカヲルの描写を通じて、人がどのように自我と他者を見いだし、ふれあっていくのかを庵版とはまた異なる形で描こうとしたのだなと思わせる展開になっていった。特に第11巻はその意味で成功だったと思う。


2.猫のモチーフの問題

ところで、貞カヲにおける「自我の目覚め」を追いかける上で一つだけ気になっていることがある。
第11巻において、貞カヲは「あの猫のように」僕を消してくれと言う。ここで貞カヲ登場時の猫を殺すシーンがオーバーラップする。
だけど、貞カヲの境遇と猫のそれとには一つ決定的な違いがある。それは、貞カヲは自らの死のあり方を選ぶことが出来たが、猫には最後までその自由がなかったということだ。(死に方を選んだのは貞カヲだった。ちょうどゼーレによりカヲルが生かされ、殺されようとしたように。)
この辺、貞本さんはどう考えておられるのだろう。

貞カヲは当初より「僕は僕自身の意志を超えた存在の気まぐれにより生かされ、そしてもうじき殺される」ということを心の奥底から思いしらされている存在だった(最初の方にはそういう気配はないが、第11巻でわかる)。猫のエピソードはそんな彼が「自分がそのような目に遭っているのだから、他の存在をも同じように扱うことに何の問題があろうか」とごく自然にやってしまった行為に見えた。そして猫は当然、反抗すら出来ずあっけなく死んだ。

だが最後のシーン、「猫のように殺してほしい」と彼はいっているが、その意味するところは逆説的にも、彼は猫のようにされるがままにならない、自分で運命を選ぶ、ということを意味していた。

このとき彼は、自らがかつて一方的に死を与えた猫のことを少しは悼んでいたのだろうか、それとも、猫と自分との違いには気づかずに死んだということなのだろうか。すこし気になる。
後者だとしたらそれはそれで、痛ましい物語だ。

PR