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「えいがのおそ松さん」感想(ネタバレ有)

「えいがのおそ松さん」について。特に高橋のぞみさん論。
(映画見たあとすぐに書いたのだけどしごとで投稿遅れました)

高橋のぞみさんについて「腐女子も含めたファンの目線に近いキャラクター」とみなして、ファンへのラブレターとして映画を捉え、評価する(あるいは批判する)感想を最初に見たときは、正直とても驚いた。自分にはその発想がまるでなかったから。

だけど、パンフによると高橋さんはまさに「お客さんの立ち位置に近いキャラクター」として作られたとある。だから、なるほどそういう感想で当たっているのかと気づいた。むしろ自分にまるでその感想が出てこなかったのは何故か、を考えなければならないようだ。

私がそう反応してしまったのには理由がある。高橋さんは、ある視点からみるととても「上手く描けている」キャラだったからだ。だから自分は彼女をメタ的な存在というよりは、完全にお話の中の人物としてみてしまっていたのだ。



鋼の錬金術師実写版の感想

鋼の錬金術師の実写版映画を見に行きました…。

役者さんは頑張っていたと思う。特に山田君は。あと、ロケしてとった背景や、汽車、一部の家屋などのセットはよかった。
真理くんと第5研究所も想像以上だった。ホムンクルス勢、ラストの演技は素敵でした。
エンヴィーも役者さんのウィッグ以外はとてもよかったし、エンドロールのクリオネは最高だったと思う。

セラピー、再体験としてのBL(二次)創作?

「それは「夢の言語」「隠喩の言語」だったの。トラウマを経験した人ならわかると思うけど、分厚いアスベスト対策用の手袋をつけないと扱えないようなことがあるの。そして、性的または肉体的な虐待を受けた人々(*3)は自ら暴力的な傾向をもつことがあるというけど、わたしはそうではなく、ああいうかたちで作家になった。」
オオカミ少年は真実を語れるか 世界を騙したJ.T.リロイ=ローラ・アルバートの狂気と正気より

J.T.リロイは「性的虐待を受けて育ち男娼になった少年の自伝」として数冊を売ったあと、実は正体が40代の女性作家(=ローラ・アルバート)だということがわかり、大スキャンダルとなったひとだ。私はリロイの本(『サラ、神に背いた少年』)を持っていたし映画も見ていたので、その事を知ったときはショックを受けた。だけど、それとは別にローラ・アルバートという女性が何故そんな形で物語を書いたのかということに強烈な関心を持った。

調べて分かったのは、彼女自身が性的な虐待を受けたことがある人だったということだ。
つまり、性的トラウマを持った女性が、性的虐待を受けた少年の物語を(半ばセラピー的に)書いていたのだ。そして私にはそのことが、自分の好きなものや、これまでしてきたことを理解するためにも重要であるように思えた。

一般に、トラウマを癒す方法として、過去の辛かった場面を安全な場所で想起し、再体験する、というものがある。それによって自己コントロール感を取り戻すのだという。ならば自分と似た体験をした人間の物語を敢えて書く(描く)ことで、その種のセラピーを試みる人もいるだろう。

でも、そこで思うのだけど、性的なトラウマのある者にとって、女性の肉体をまとう存在を思い浮かべることが、もうそれだけである程度不安を呼び起こすこともあるんじゃないか。少女がレイプされる物語など、もうそれだけで身につまされて嫌だし、何より自分が陥っていた(あるいは今も陥っている)無力な状態を思い起こさせる。何故なら、この社会は常に女性を性的な暴力に晒し、無力化し続けているので。
そこで安全な感情移入先として、美しさでは少女に似ているが、より傷つく部分の少ない少年、それも大きくなればレイピストをも力で圧倒しうるかもしれない少年を選び、物語を書く(描く)という行為が選ばれることもあるんじゃないだろうか。
たとえば、性的虐待を受けて苦しみ、自己のコントロール感を見いだすために売春をしたり、もしくは救われたくて恋愛をしてみたけど相手に精神的な暴力を振るってしまったり、という苦しい物語を少年の身体を持つキャラにより表現することで、何らかのカタルシスを得ることがあるんじゃないか。

同じではないにしても、自分がBL二次創作をするときも、ある程度似た心理が作用していた気がする。自分は性的虐待まではされてないけど、何かの傷付きや、しんどかった気持を追体験しようとするような作品は少なくない。創作している時は単純に楽しんでいただけで、そんなつもりは全然なかったんだけど、今ふりかえって10年くらいの間に(描き)書きためた作品を眺めるとそんなことを感じるのだ。少なくとも話の展開に萌えだけではない要素が入り混んでいる。いや、トラウマが萌えの原型(性癖)を作ってしまっている、というべきか。
実際問題として、自分が心惹かれる主題は基本的には「性的虐待のトラウマ」「売春」のどちらか、あるいは双方を含むものが多い。

BL二次創作一般では多数派とはいえないが、少年が大人に性的な虐待・いたずらをされるシーンをとてもうまく描く作品は、女性向け作品には少なくない。しかも、その後のPTSD的状況までかなりしっかりと描くものが散見される。
更に言えば、その手の物語の描き手(書き手)には、はっきりと性的トラウマ(たとえば子どもの頃性的な悪戯を受けたなど)の自覚が見られることすらある。もちろん逆に、全くそうではないこともある。

決して多数派にはならないが、そうしたトラウマを背景に創作する人というのは常に一定数いるように思う。特に、自分がそうだからいうのだが、成人男性より少年を強く好む人には、何か独特な、抱えているものがある人もかなりいるのではないか。
自分も含めそういう心理的背景を持つ人々が、いわゆる成人男性同士の物語が好きな人々と一緒になって、「BL」や「女性向け二次創作」の人気を支えているのではないか。そんな気がしている。

ひとりめしと夜の中華料理店

仕事をしてて夕食が遅くなったので、地元の中華料理店に入った。9時を過ぎていたと思う。
店の中は閑散としてて、普段着の若いカップルと中年男女がいた。客も店員も日本語以外の言語を話している。
二十年くらいはたっていそうなすすけた風合いの壁。ラミネート加工されたメニューは赤地に素朴なゴシック体で印刷されている。デザートのゼリーが「ゼーリ」となっているのはご愛敬。
このくらいの時間にくたびれた気持で入り込むにはいい店だった。

豚の角煮にほうれん草、白米を盛った皿を頼んだ。七〇〇円ほどのメニューだ。ポット入りの中国茶もつけて一〇〇〇円。
その日は、和食よりは濃い味のおかずと、白米とが食べたかったからありがたかった。この店で正解だな、と思った。
中華料理というと大人数でたくさんの皿をまわすイメージがあるが、こういう店ならちゃんと一人飯用のメニューも用意している。そして意外と美味しいのだ。経験から何となく知っていた。


夜の中華料理店は好きだ。それも、遅い時間に一人で入るのがいい。独特の雰囲気がある。普段は慌ただしい料理店で、あらゆることがピークを過ぎて弛緩している。まるで外界と別の時間にいるみたいに。店員は隙あらば厨房を向いて、気ままに中国語のお喋りをしているし、客には妙な生活感がある。
そんな中、必要最低限だけ相手にされて、思う存分放っておかれる。
その感じが、何だかよいのだ。



中年の壁と二次創作

とんでもなく久しぶりにブログ更新です。二年も放置していた。なんということだ。

12月30日にコミケ(C91)に行きました。コミケ自体一年半ぶりでした。それで某ジャンルのとあるサークルさんのご本を買ったのですが、ふと作家さんをみたら、明らかに私より年上のマダムでいらっしゃった。輝いて見えました。ちなみにその方は超絶技巧かつ物語も作り込んだ漫画を描かれる方で、納得、という感じでもあった。
なお、プロの活動をしているのかどうかなど、そのあたりはよくわかりません。

むかし、萩尾望都氏のインタビューを読んでいたら、「20代の時はとにかく描きたいものを描くということで走ってきたけど、30代になったある日、書きためたネタ帳を見たら急に色あせて見えた。古くなっていた」という話が出ていて、戦慄したことがあります。丁度その頃、「出力がにぶってきたな」という感覚につきまとわれていたから。
大漫画家の一次創作と自分の二次創作を関係づけて考えるあたりからしておかしいし、私はそもそも30代近くなってから二次創作を始めたので、年齢的にはズレてるんですが、その頃から「創作の力に限界はあるのか」というテーマはどうしても気にかかっていました。

萩尾先生はご存じの通り、その時期を乗り切り、むしろ作家としては更なる成熟を遂げたわけです。そのためには20代の時、勢いのままに作っていたものを惜しげもなく棄てて、冷静に作家として描きたいものを見つめ直すような作業を行ったそうです(実は現在そのインタビューが手元にないんですが、確かそういう内容だったかと)。
逆に言えば、この作業が出来る人だけが作家として生き残っていくということなんでしょう。

もちろん、さっきも言ったように、二次創作と一次創作では、用意する内容の質も量も相当に違うので全くそのまま当てはめることはできないません。でも、30代から40代にかけて、二次創作をする人の数もがくっと減るという現実がある。

その主な理由は、仕事や家庭、もしくは両方でとても創作どころではなくなる人が多いということなのだろうし、自分も最近描(書)けてない理由の6割はそれだろうと思ってる。
ただ、時間があったとしても、スタイルを変えないことには満足のいくものが作れなくなってくる、そういう側面があるんじゃないかなという気がしています。なんか、感情の動きか、頭の働きか、何かが少しずつ変化している。それは悪く言えば老化、よく言えば成熟とでも言うべき何か。

自分の場合でいえば、間違いなく、感情は少し老いた、もしくは大人になってしまった。
色々なことがあって、よくも悪くも精神が安定してしまっている。これは、たとえば実務的なトラブルや人間関係への対応をするには大変プラスなんですが、好きにせよ嫌いにせよ「うわあああああああたまらないいいいいい」というような感情の爆発や、その発露としての創作、みたいな回路はやっぱ詰まったように思う。その辺、勢いが弱まってます。

もう一つは、いい意味では視野が広がり、悪い意味では視点が遠くなった。対象を見るカメラが引いてしまっているんです。通常営業だと、事物をロングで写してる。意識してようやく間近に寄る感じ。10年くらい前は、デフォルトで至近距離から詳細に、舐め尽くすように対象を見るような観察眼があった気がする。その代わり、遠景描写は無理でした。

この話題、古今東西あらゆる人が語ってきたことだろうから、長く書こうと思えば多分永遠に続けられるんですが、この辺で無理矢理まとめると、中年以降の創作は、理性と技術をうまく感情と組み合わすことが出来る人が強いのかなと思います。総合力といいますかね。
もちろん、そのためには若いうちに技術や経験を付けておく必要もあるんですけど。この日記の最初にふれた、マダムな作家さんはまさにそういう感じのする方でした。

そうでなければ、理性や技術の代わりになる他の動機を持っている人。たとえば仲間だとか、家族の誰かが二次創作を楽しみに待っていてくれるとか。人を喜ばせるために趣味で描く、という外発的な動機の方も、実はかなり残ってるなという印象があるのです。

もちろん、このどちらとも時間がなければどうにもならないわけですが。