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雑念手帳

サイトの日記ですが、同人サイト訪問者様用に公開されたJUNK妄想雑文メモ置き場兼ねてます。「何となくこのキャラのイメージで出てきた妄想だけど限定はしない」系の小説未満な小話がごっちゃりです。

鋼の錬金術師108話(最終回)ネタバレ感想
ハガレン読みました。
読み応えがありました。
特にビジュアル面。毎度ながら、最終回が近づくにつれ上がっていく躍動感、キャラの表情、一瞬一瞬のイメージの鮮烈さ、劇的な演出が頂点に達していたと思います。
ハッピーエンド、でしたね。
本当にキレイにまとめたなという感じでした。

前に書いた感想ではグリリン(の中にいるグリードの魂)の台詞に違和感を感じたということを書いてしまいましたが、その種の違和感は今回はなかった。
グリードの台詞は小粋でしたし、リンとのやりとりもよかった。すごく自然に、一つ一つが流れの中にある感じでした。

あと、個人的に意外だったのは、エドとホーエンハイムの台詞が非常に素直に読めたことです。私事で恐縮ですが、自分は父親との関係が悪いので、父子の会話の場面で冷笑的にならずに読めることの方が少ないのです(例外はエヴァのEOEくらいです…ってエヴァに食われてますが)。それが、さらりと無理なく台詞が入ってきた。いいシーンでした。

そしてエドが真理の扉の前に立ち、自らの錬金術の能力全てと引き替えにアルを蘇られせるシーン。九年前から描きたかったと荒川氏はどこかで言っておられましたが、納得の厳かさでした。特に前後のエドの表情がいい。

キャラがほんとに生き生きしてて、シン組の帰国、国の復興、リゼンブールへの帰還、そしてウィンリィと二人の再開、二年後の生活、エドのウィンリィへのプロポーズ、と一気に読めました。

そして思いました。
鋼の錬金術師という話は、子ども時代を奪われ、特殊能力により年相応の人間関係からも疎外された主人公が、旅の過程で仲間を得て、周囲の人との絆を取り戻していく物語なんですね。そして最後は能力の軛からも「解放」される。

そもそもあの二人(特にエド)の場合、錬金術という「特殊能力」は寂しさを埋めるための代償行為としてあった、つまり子どもとして本来与えられるべき絆に飢えていたことと引き替えに得ていたところがあったのでしょう。それを最後には、いらないといえるようになったわけだ。
丁度手足を取り戻す旅が、いわば、最初に奪われていた人生を少しずつ、取り返し、生き直していく物語となっているような印象を受けました。

そしてエドは父親が果たせなかった人生――父親として子どもといること――をウィンリィと共に実現し、父親の分もいわば「生きて」いくのでしょう。(ラストシーンで子どもを抱いてましたし。)


…と、ここまでがポジティブな評価についてです。

で、すいませんが続きがあります。

このように、キャラの魅力、ヒューマンドラマという点ではとても読み応えがあった最終回なのですが、正直なところ、個人的には幾つかの点で疑問点も残りました。
それは、確かにこの最終回は「生きている人間」のための物語なのですが、言ってしまえば本当に「生きている人間」中心の視点のまま終わってしまったなあ、という印象がどうしてもぬぐえないのです。

自分の引っかかりは以下の二つ。

・賢者の石の扱い

アルがキンブリーとの戦闘で賢者の石を使ったときから既にちょっと違和感があったのですが、最終回でマルコーが賢者の石で大佐の目を治すなど、ちょっと簡単に使われすぎではないか。
13巻あたりでエドワードがエンヴィーの身体(を作る賢者の石)を使うはめになったときに示した「ためらい」がいつの間にか消えてしまっているわけだけど、どうして消えたのかが示されていないと感じた。
もちろん、戦いに勝つためには使わざるを得ないという話に持って行くのは自然だと思うのだけど、ならばもうちょっと丁寧に心理描写できたのではないか。「中の人と対話をして納得してくれたからOK」というホーエンハイムの論理は一つの答えになっているかもしれないけど、正直言って五十数万人が同意するという設定にリアリティを感じない。あと、他の石に至ってはそういうプロセスもない。せめて、「犠牲を生むという痛みを噛みしめながらも使う」のような覚悟を示すプロセスが描かれていればもうちょっと読後感が違ったと思う。


・「フラスコの中の小人」=ホムンクルス(お父様)の扱い

ホムンクルスは最終回で「身の程知らずにも他人の身体や能力を盗み、更には神を手に入れようとした傲慢な小悪党」として真理に裁かれることとなる。これ自体は「因果応報」的な流れでうまくまとまっていた。
しかし同時に、このエンドによりホムンクルスは単なる「異次元から侵略してきた有害な人外生命体」扱いになってしまった。で、それを駆除して人間がハッピーというエンドとなったわけですが…(ただしエドの能力(?)により子どもがえりしていたプライドだけは免罪された)。
でも、ホムンクルスを作り、呼び寄せたのはそもそも人間(古代クセルクセスの)ではなかったのか。なのに最終回はホムンクルスの「非道」「加害」を誅するという形で終わってしまった。そのため、この人間の「加害」性、すなわち、そもそも事の起こりは「人間自身の奢り」であるということが忘れられてしまったようにみえて、個人的には残念だった。これはこれで一つの大きなテーマとなり得たのに。

また、扉の前で真理が、フラスコの中の小人でしかないホムンクルスに「身の程を知れ」というシーンがあるが、あれも酷な話という気がする。彼は人間によって異次元から引きずり出された上、手も足もない、いわば究極の身体障がい者状態にあり、他に同胞のいない孤立した存在だ。読んでるこちらとしては、そんな状態の生き物が己の境遇を憎み、結果、反動的に肥大した傲慢さと攻撃性を持ったとしても無理はないという気がしてしまう。自分の手足で立って歩いていける、または手足がなくても機械鎧を作ってつけてくれるエド達とはどうしたって違う。最初から絶対的に不平等なわけだ。

ホムンクルスは人間の傲慢さが作った犠牲者の苦しみと、その反動としての無限の悪意が凝縮された存在と私は感じていた。つまり、ホムンクルスは犠牲者でありながらも、同時に究極の敵であるという相反する特徴を持つ「悪役」だと理解していたわけだ。
特に13巻で、人間の負の感情と苦しみを物理的に具現化したようなエンヴィーの本性が、恐ろしいというよりは「本人も苦しんでいる」という印象を与えるものであったことからもそう考えていた。
そして、フラスコの小人=ホムンクルスとの関係では「被害者」でしかないホーエンハイムがお父様を倒そうとするのは納得がいくにしても、少し立場の違う息子のエドは、何か父親とも違う意外な視点を見せるのではないか、とも考えたのだった。

でも違った。結局父子一丸となり「みんなで敵をやっつける」展開となり、大団円が待っていた。それゆえに、何か主人公達の側にもうちょっと葛藤があってもよかったのではないか、という気持ちが残ってしまった。要は不完全燃焼感がある。


…とまあ、こんなところです。

かなりはっきりと色々なことを書き散らしてしまいましたが、でも、最後に言っておくと、鋼という作品に会えて私はとても幸せでした。
毎回楽しみにしながらページをめくった記憶や、グッズを集める喜び、そして何より鋼を通じていろいろな方々と出会えて、考えを話し合ったり出来たこと、すべて本当に大事な思い出です。
この先人生でこういう体験が出来ることってそう何度もないと思う。
特に自分の場合は、人生の後半戦がうっすらと見える年齢にさしかかりつつあるので、なおさらそう感じます。

改めて作者様をはじめ関係者の皆様に、ネットの片隅でではありますが、一ファンとして心からお礼を申し上げたいと思います。
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コメント

1. 無題

こんにちは。
長文失礼します。
サキオ様の感想・考察を読んで、毎回色々考えさせられてしまいます。物語としての位置づけ、凄く納得してしまいました。


賢者の石に関して私もちょっと簡単に使われすぎかなと感じました。
もっとも、賢者の石に対する作中のキャラ達の態度は中盤から最終回まで一貫していると思いますが…

まず、エドとアル。
自分の身体を戻す為には絶対使わない、でも他人の命を助ける為なら唇を噛む思いでやむなく使う。

マスタング。割と割り切っていて、生産的な結果を生むなら使う。

リン。殆ど割り切っていて、既にどうしようもない石の中の魂のことは考えない。

私としては、賢者の石は多くの人間の犠牲の産物であり、使うにも痛みをかみしめなければならないってことを他キャラにも啓蒙するのかなと思っていた時期がありました。
そういった部分がエドアルの中だけにとどまってしまったかな、と思います。

けれども、こういった「痛み」の描写は作中ではあまりキャラの心情を明確に言葉として出さないだけで、ないわけではないのかもしれません。
暗喩や皮肉としてさりげなく描写したりと。

マスタングの場合、元々キンブリーが持っていてマルコーに渡された石を使いました。
皮肉にもイシュヴァール人が材料となった石で視力を回復して、贖罪としてイシュヴァール政策に尽力することになりました。

このことはかつてのイシュヴァール人の犠牲のおかげで自分が再び未来を見ることができるようになったのだという事実を一生背負っていくことになると思います。


ホムンクルスに関しては、一旦生まれいでてしまったからには自分の在り方を考えなければならなかった。
その結果として惨事を起こしてしまっただけなのにあの結果はちょっと…と思ってしまいます。手段を選ばなかっただけで、「この世を全て知りたかった」というのは純粋な知識欲ですよね。エド達も抱くような、それ自体は悪くはない切実な感情だったと思います。

人間/人造人間の区別なく一個の個人として真理の扉の前に引きずりだされ、自分自身の頭では考えることはせず真理の知識のみを求め、傲慢ゆえに裁かれたホムンクルス。

対して、自分自身のアイデンティティである錬金術を放棄してまで、真理の知を捨て自分自身の頭で考えて選び、傲慢を捨てたエド。

この対比を出すためとは思うのですが…


やっぱりせめてホーエンハイムとホムンクルスの間になんらかの対話があっても良かったような気がします。


全体として、語らせすぎないでエドとアルに焦点を絞っていて細かい描写にも気を配っていてい素晴らしい最終回だと思っています。
すっきりさっぱり、という言葉がぴったりです。
荒川先生9年間お疲れ様でした、と言いたい気持ちでいっぱいです。

2. 無題

どうもこんばんは!
読み応えと密度満点のコメントありがとうございます^^

>もっとも、賢者の石に対する作中のキャラ達の態度は中盤から最終回まで一貫していると思いますが…

そうですね。キャラクター一人一人の態度にブレはない。
アルについて、「他人の命を助けるために」の描写を十分と思うか、もう少し何か、と思うかという評価の違いは個々人であると思いますが。
私自身は啓蒙するまで期待してはいなかったのですが、もっと「痛み」や「苦さ」を強調する演出を期待していたみたいです。

キンブリーが持ってきた石がイシュヴァール人から作られたものであるという点は日記を書いてた時点では気づいておらず、ご指摘で気づきました。確かに、この辺のオチは、改めてそうとわかると確かに印象が違ってきて、さすがは荒川さんだと思いなおしました。

全体的に、そういう類の細かい気配り、仕掛けが随所にあるというのは、記事を書いた時点では自分は追い切れておらず、後から分かってきたことがたくさんあります。
たとえば、石の話からはそれますが、ウィンリィが最後のシーンで着ていたパーカーが、エド&アルの帰還シーンでエドが着ていたものと同じであるとか、三人称のナレーションが入るタイミングとか、108話という数字だとか、あの最終回にはそういう細かい演出が色々あって、ほんと、描き手が楽しんで仕掛けたなって感じですよね。荒川さんご自身がオタ文化には造形が深いわけですが、イイ意味で(探求者という意味での)オタク的な計算と喜びのちりばめられた最終話でもあったのだなと、改めて読んでみて思っています。

ただしその一方で、キンブリーの石や贖罪という逸話が、どの程度そういう読者の「発見能力」に委ねられるべきだったかという点は、ちょっと評価が分かれるところという気もしています。確かに、表面しか読まず「誤解」する読者に責任があるとはいえますが、大事なテーマをわかりづらく書きすぎていると考えることも出来るからです。


ホムンクルスの扱いについては、まあ、もともとの鋼の話の構造が、その方向を向いていたということなのかな、とも思いはじめました。23号=ホーエンは多分、荒川さん的には「傲慢な人間」の一人ではなく、むしろ、それらの人びとが作った身分制度というシステムの「被害者」扱いなのかなと。だからホーエンは最初から免罪されている。そして更にホムンクルスによる「被害者」ともなる。
で、ホムンクルスもいわば人間に無理矢理作られ生み出された被害者的ポジションといえなくもないのですが、同じ被害者でも、ホーエンと違って汚い手を使ってしまった。だから最後に罰された。つまりホーエンとその息子は「いい子」、ホムンクルスは「卑怯者」。
…という流れなのかなと。

また、考えてみればセリムや他の大罪達は生き残ったり人間に「理解」されたりとなっているので、残った「お父様」部分は「どうしようもないだめな要素」の集合なのかもしれない。だから罰するしかないという扱いなのかもしれません。
そう考えるとすっきりしてて腑には落ちるのです。

ただ同時に、荒川さんと不肖私めの間には、多分、生育環境の違いなどにより、根本的な価値観の差があるのかもなという気もしてきまして…。
簡単に言えば、農村に育った人と、都市育ちとの違いとでもいいましょうか。
その違いが、ホーエンを被害者と取るか、加害者かと取るかという考え方の差につながってる気がするのです。
この辺について、ちゃんと書こうとしたら長くなりそうなので、機会があれば、この辺もまた記事の形にして書いてみようかと思います。
締めくくりが何か分かりにくい話でもうしわけないのですが…


でもいずれにせよ、本当に鋼は出会えて良かったと思える作品でしたね^^
内容が面白かったことに加えて、雉人さんとこうして話しているように、作品を巡って意見交換する喜びまでいただいた。読み手を本当に喜ばせ、考えさせる作品でした。そう感じています。
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